義太夫は改良すべからず

坪内逍遥

 拝啓。先日の御稿に対し、何か相認可と御約束申置きながら、つい延引、失礼仕候。さて表立って批評致そうと存候へば、とかく何か文飾が加えたくなり、妙でないように存候故、過日席上にて申述候通りを、改めて左に書き流し申候。劇に縁深き小生は、義太夫にも縁が深かるべき筈に候へども、どういふ訳か小生は義太夫というものを好き申さず。(或いは余り上手でないのを青年時代に割合に多く聴いたせいかとも存候。)したがってこの曲に対しては全くの門外漢も同然に候処、世間にはそう思わぬ人もありと相見え、小生が文芸に関係を有し居候過去三十年の間に、随分種々の人に訪問せられ、種々の義太夫論を聴かされ申候。改良論や振興策等もいろいろ承り候ひしが、何れも言わば月並の論にて、此度の御論程の屹と急処に中ったのには、未だ一度も出逢い申さず候ひき。今まで聴き候は、概して道楽七分の論、貴君のは真剣と存候。些も浮佻の気なく、徹頭徹尾、真面目にこの曲の為にこの曲を愛惜せられ候が嬉しく候。次ぎに在来の義太夫讃歎者流のように改良論を唱へられぬ処が有難く候。卑見によれば、この曲に限らず、総じて芸術品は(よしや時勢が移り変ればとて)決して改良すべきものにはあらずと存候。古いままが最善にして最美ならざるべからず。保存はすとも、修復はすとも、改良したり刷新したりすべきものにはあらずと存候。古い仏画が剥落したからとて、舶来の絵の具では塗られまじく候。浮世絵の遊女絵が外国人に見せにくいからとて、束髪の令嬢に書き直すことは出来ぬ筈に候。義太夫を愛重するならば、あのままが善い道理、貴君が一言も俗に謂う改良に言い及ばれざるは、真の義太夫通たるの明証と敬服仕候。次に最も感服致候は、御自身で演ぜられぬ事に候。按ふに洵に芸術を尊重する者は、その芸術を神聖視する人なるべく、既に神聖視する以上は、到底それを玩具扱いには出来ぬ筈と存候。苦しみづから学ばば、他の業務を抛ちてかかり、詣り究めざれは止まじといふ決心を以て之に臨むか、然らざれば、其のいよいよ遠く、いよいよ高く、いよいよ深くして、到底及びがたきに想到して、全くその志を絶つか、そののいずれかでなくては嘘と存候。所謂素人芸に止まりて得意げなるは、道楽気が勝つ故なるべく候。而して道楽気の勝つ人は、真の芸術の愛護者とは存ぜられず候。みづから御演じなきによりて、如何にこの曲を愛重せらるることの探きかを相察し申候。

団十郎や菊五郎の身振、假声にて素人芝居を催す人などに、劇の真の愛護者は殆ど絶えて無き例に候。義太夫界の事は知らず候へども、他の芸界にありては、素人輩出は往々にして贋造品の濫造に比すべき場合もあり、趣味性の堕落に媒すること無きを保せず候。

之を要するに、義太夫の将来に対しては、一に保存策の外はあるべからす。但しかつて舞踊劇を論じ候際にも申せし如く、凡そ或一物を保存せんと欲すれば、単に保存といふことの以外に、何等か新しき発展の法を講ぜざるを得ざる習いと存候へば、此際何とかして義太夫を(現代の需要に応じて)利用するの策を御案出なくては叶う可らずと存候。例えば、文楽座の如き操り劇を、更に古拙簡樸の大昔に退歩させて、言わば「能」と同じ格の古芸術とし、依りて以て更に広く利用し得らるものとするか、或いは古きは古き曲のままに保存すると同時に(小生がかつて『新楽劇論』にて唱へたりし如く)、新舞踊劇なぞの一節として利用する為に、全く新しき節調を工夫せしむるか、何等かの御考案なかるべからずと存候。これは改良にはあらず、全くの創始に候。御混同下されまじく候。小生は能楽に対しても之と同様の策を献じ試み候事有之候。今日のままにて押し行く時は、この曲は彼の「忠臣蔵」や「先代萩」の劇と同じく、次第に理屈を加味せられ、写実脈を加えられ、おいおい現代化され、日本画のような、油絵のような、えたいの解らぬものと成り果つるおそれあるべく候。此の辺の高見も追々御漏し下被度候。先づは取急ぎ当座の所見のみを申上候。早々不具。

都市の味 名古屋 石川栄耀の視線

都市の味とはどんなものだろうか。

日本の都市計画学界で最も栄誉のある賞『石川賞』にその名を残す都市計画家 石川栄耀は、旅とは都市を味わい知ることだと語っている(注)。都市に味があるとしたら名古屋の味はどんな味だろうか。

名古屋生まれで元名古屋市計画局長だった伊藤徳男氏は、名古屋の街について
「栄を中心にして、半径1キロで画かれる都市の中枢部において、その面積の二分の一が公共空間で構成されていることは、他都市にも比類がなく、それらが市民の貴重な財産の結集であることは大きな誇りである。」と述べる(『名古屋の街 戦後復興の記録』 伊藤徳男 中日新聞 昭和63年)。
名古屋に出掛けるのなら、他都市に比類がないという都市の中心でありながら街の50パーセントがパブリックスペースという『栄エリア』に出かけたい。

ここ数年名古屋では、『栄エリア』対『名駅エリア』という図式が語られることがある。
名駅エリアとは、名古屋駅周辺の地区のことで、街の名前も「名古屋駅」を縮めた少し味気ないものだ。高層ビルになった駅ビルと周辺部の再開発によって数棟の高層ビルが生まれた。「栄対名駅」で語られる結論はいつも名駅優勢といったものだ。公示地価、オフィスビルの3.3平方メートルあたりの平均賃料、名古屋駅ビル内の高島屋と栄の松坂屋の売上げの伸び率は、すべて名駅の勝ちとジャッジする。
これから述べたいのは、都市を貫く街づくりの基本的なコンセプト、魂のことである。駅前の再開発ビルや駅ビルの高層化に果たして魂といえるようなものがあるだろうか。
東京駅丸の内口駅前の東京中央郵便局の建替えに関して、異議を唱えた大臣に対する推進派からの反論は、「手続きは進んでいる。もう遅い。今更この件についての議論が蒸し返され、工事が滞ればビルの完成後入ってくるハズの1ヶ月につき10億のテナント収入が失われていく…」というものだった。反論には、街づくりの一環としてのビル建設といった視点は何もなかった。だいたい、歌舞伎の荒事では、「もう遅い」は悪者が言う科白だ。

石川にはこんなエピソードがある。名古屋の都市計画技師時代、1年間世界の都市を視察する旅に出て、1924年アムステルダム国際都市計画会議で出会った「イギリス都市計画の父」とも呼ばれるレイモンド・アンウィンに、持参した名古屋の都市計画を見せて高評を仰いだ。
名古屋の海岸付近がほぼ全て工業地帯になっていたその計画を見たアンウィンは、

「君達の計画を尊敬はします。しかし私にいわせれば忌憚なくいわせれば、あなた方の計画は人生を欠いている。私の察しただけではこの計画は産業を主体においている、いや、主体どころではない産業そのものだ。成程カマドの下の火が一家の生命の出発点であるように産業は立都の根本問題であろう。それに対して何もいわない。しかし、例えて見ても一家の生活においてもカマドの火は高々一時間で消される。そしてそれから後は愉快な茶の間の時間がはじまるハズだ。
産業は人間生活のカマドでしかない。むずかしく言えばそれは文化生活の基礎である。
軽い言葉で言えば文化の召使(サーバント)である。
あなた方はサーバントに客間と茶の間を与えようとしている…(中略)…)」と説かれた。
言いたい事は充分にあった。弁解もしてみたかった。それよりも自分達のほとんど偶像化している先輩から思いがけなくこうした若い柔らかい意見が聞けたのが何よりも嬉しかった。文句なしに頭が下がった(『都市創作』1巻3号 大正14(1925)年 17ページ)。

と石川は自らの筆で書き残している。
別に、駅前の一等地を、サーバント(産業)には与えず、つまり、オフィスビルにしないで名古屋を訪れた旅人のために公園にして差し出せと言うつもりはない(ちなみに、栄エリアの一等地は、100メートル道路の久屋大通で全長1.7キロの帯状の公園となっている。)。ただ、高層ビルの駅ビルや、駅前再開発によって建設された高層ビルには、民間企業として所有する資産(土地)の有効活用という視点以外に何があるのだろうか。そこに味わうべき人生といったものがあるだろうか。
栄には間違いなく「人生」がある。「街にも寿命があって、1610(慶長15)年の名古屋城の築城と都市の大移動いわゆる「清洲越え」を名古屋の誕生とすれば…」といった比喩を言うつもりはない。
戦災によって中心部の大部分が消失した名古屋の街を復興させるとき、この街を作った人たちは何を考えたのだろう。都市の中心部が焼け野原になったとき、この街の都市計画に携わってきた人々は、失われた尊い人命を想って強い後悔と無念を感じたはずだ。何であれ二度とこんなことが起こってはいけないと感じ、起こさないと誓ったはずだ。
その誓いによって生まれたのが、名古屋の街を中心部で4つに隔てる防火帯(延焼を防ぐオープンスペース)としての2本の100メートル道路だ(注2)。石川を含めてすべての名古屋の都市計画に携わってきた人たちの強い意志(魂)が生んだものだ。伊藤が胸を張る栄エリアの公共空間の大きな割合を100メートル道路が占めている。100メートル道路は現在公園だ。黒沢明の映画『生きる』(1952年)で志村喬演じる市民課長は最後に何を作ったのだろうか?
新幹線を降りて手近に何でもある名駅の街は便利かもしれないが、都市に味があるとしたら名古屋の味は「栄エリア」に行かないかぎりは味わうことはできない。

注 都市の味 「郷土都市の話になる迄」の【断章ノ三】 石川栄耀

https://www.webmtabi.jp/200903/feature_1_1.html

防火帯としての100メートル道路

注2 名古屋を4分割する防火帯として若宮大通(100メートル道路)が南北を、東西を久屋大通(100メートル)とともに、新堀川が担っている。 IATSS Review Vol.23, No.4 March,1998 9ページなど

文楽の味

織田作之助
十月興行の古靱太夫の「阿波十」を聴きに文楽座へ行ったところ、思いがけない満員で階下席は全部売切、いたしかたなく二階へ上ったが、そこでも坐る余地がなく、そんな時いつも、こっちへいらっしゃいと、どこか席を見つけてくれる唯一の頼りの宣伝部の方があいにく不在なのを悲しみながら、うろうろしているところを、案内嬢に追い立てられて、二階の右隅の照明係のうしろで立ち見した。
のっぽの一徳で、背伸びしなければ見えぬというほどではなかったが、凭れかかるものがないので、ぽかんと腕組みして栓ぬき瓢箪のような恰好で突っ立っていると、なにか不安定で仕方がなく、それに上から斜めに見ると人形の姿勢も腰がふらついているように思われ、おまけに古靱太夫の顔が全然見えない。
以前は、いつ来ても場内は閑散としていて、出演者に気の毒でならず、この国宝芸術がこんな有様ではと胸が痛み、大阪人のひとりとして悲憤の涙にくれたのだが、現金なもので、今日この頃のように満員の賑いでは、かえって見物も舞台もいやらしく俗っぽい気がして来て、不届きなことだが、以前の寂寥がなつかしく思われた。
恐らくこれは何によらず人気だとか名声だとかいうものに対するひとびとの雷同性を、かねがねひそかに反撥している私の厄介な魂のせいであろうけれども、ひとつには、時代に取り残されて、やがては亡びて行くのではないかと危まれたこの古典芸術への郷愁からではあるまいか。文楽のあえかな美しきの中に、私は落日の最後の明りの美しさを見ていたのである。それに、津、土佐、駒の太夫が相ついでたおれ去り、人形遣いの後継者も得がたいという状態である。
けれど、国力伸長の秋に、このような感傷は不吉であろう。栄三、文五郎健在であり、古靱はますます円熟しているではないか。
私は津太夫が好きであった。ぱっとした華やかさがなく、いざ語らんという構えもなかったが、誰やらが文壇の徳田秋声に擬していたように、語り行き、聴き行くにつれて、語る人、聴く人ともに渾然とした境地の中へ吸いこまれて行く芸は、またと得がたいものであった。が、この人なきあと、やはり古靱はただ一人のひとである。顔は見えなかったが、しみじみ聴けば、さすがに古靱の「阿波十」は逸品である。いつもながらの、まくらの感情移入の巧みさ、圧えに圧えた抒情。御詠歌の静かな盛り上り、サワリの渋さ。
人形も良かった。上から斜めに見ても、さすがに栄三、文五郎であった。栄三の計算しつくした正確無比な意識的演出、文五郎の天衣無縫の無意識的演出、いずれを是とし、いずれを非とすべき筋合のものではなく、ひとそれぞれの好みによるかと思われる。
批評家はしばしば栄三に軍配をあげるだろうが、そしてそれは妥当であろうが、しかし、私の好みからいうと、その日その日の気分で演出の変る文五郎の即興的な芸が好きである。ほんの一秒か二秒、あっと息をのむような美しい線をちらと見せたとたん、もうはかなく崩れて、ひとびとの注意を外らしてしまうこの憎らしいばかりのあえかな瞬間を、明日も文五郎は見せるだろうか、見せるとすればサワリのどの個所で見せるだろうかと想像するほど、なやましく愉しいものはまたとない。 ちかごろ出た「文楽」(筑摩書房)という写真集は、近来まれに見る豪華な美しい本であるが、そこに収められたかずかずの写真もやはりこの美しい瞬間を充分捉えているとはいいがたい。この点は、映画の「浪花女」も同様である。この写真集の終りの方には、文楽に関するさまざまなエッセイが輯められているが、結局栄三、文五郎、紋十郎等の芸談速記が唯一の見るべきもので、ハーゲマンやクローデル等異人の文楽論の翻訳など載せているのは、何か余計なおせっかいのように思われる。異人に文楽の見方を教えられなくとも、黙って虚心坦懐に見物して居れば、すくなくとも私たち大阪人には、昆布の味のように噛みしめれば、しみじみその良さが判る筈である。
私を邪険に扱った案内嬢も、いつか文五郎のサワリにひきこまれていたのか、「阿波十」の幕がおりると、「文五郎はんのサワリはいつ見てもよろしおまんな」とどこかの婆さんをつかまえて、言っていた。婆さんは、「ああ、もう古靱はんの阿波十きかしてもろたら、何もいりまへん。おおきにごっとはんでした」と御馳走になったような挨拶をしていた。こういう人達の感想談を速記して、のせた方が、異人の文楽論をのせるより、どれだけ気が利いているかも知れない。

文楽の人

織田作之助

吉田文五郎

吉田文五郎でござります。お初にお眼に掛ります。何なりと聴いとくなはれ。
歳でっか。へえ、もう六になります。へえ、そうだす。七十六だす。吉田栄三はんはわてより三つ若うおますさかい、三でんな。さあ何年生れになりまっしゃろか。こうーつとさよか、栄三はんは明治五年でっか。ほんならわては二年生れいう勘定になりまんな。

さア二年の何月だしたか、たしか十月やと思いっすけど……。日でっか。ころっと忘れてしまいました。えらい鈍なことで、大阪の畳屋町だす、生れた所は…‥。これだけはよう覚えとります。それといいますのが、わての生れた家がいまだに畳屋町に残っとりますのんや。わての父親はその畳屋町で親譲りの質屋とその片店に炭屋をやっとりました。河村清五郎という名アだしたさかい「河清」という家号だしたが、何でもわての九つの時に失敗して人手に渡してしまいました。けど、その「河清」という看板はいまだに畳屋町におます。

その時分はなんし大阪も随分(とうない)不景気だしたさかい、「河清」を人手に渡してからというものは、父親もえらい苦労して、母親と一緒に一文菓子を売って歩いたりお鮨屋をしたり、住居もわてが覚えてるだけでも、九条、天満の寄木町、上福島、千日前、木津……という風にあっちイ変り、こっちイ移りして、いろいろ商売も変ってみましたが何やってみてもてんと埒があきまへん。そんで父親は世話する人がおましたさかい、松島の文楽座イはいって、-いえ、芸人やおまへん、表方で手代かなんどの仕事するようになりました。

わてが文楽イはいったのんは、そんな関係からだしたが、けど父親は自分が文楽イ勤めるようになったからいうて、子供まで小屋者にする積りはおまへなんだ。もちっと堅気の稼業に入れる積りでしたさかい、わては十一か十二の歳に奉公へ遣られました。

その時分は、大阪では良家の坊(ぼ)ン坊ンやない限り、みな子供の時から奉公に行たもんだしたがこれがまた随分辛うおました。なんし今で言うたら尋常学校もまだ出てんくらいの歳だす。それが貴方様(あんさん)、朝は冬でも四時に起きて、戸オあけて冷い水で拭掃除して、それが済むと旦那のお伴して朝銭湯イ行て、旦那の湯くんだり水くんだり、背中流したり、身体拭いたりします。旦那は一足先に帰りはります。裸で飛んで行って下駄揃えて、そのあとではじめて湯ウにつかって雀の行水みたいに一寸身体ぬらしただけで飛んで帰って、漬物二片の朝ごはんを戴いて、それから店へ出て、昼間さんざんこき使われてええ加減くたびれているのに、晩は旦那の按摩をさせられて、煎餅蒲団にくるまって寝るんが十二時だした。一刻うとうとしたかと思うと、もう起きて眠い眼エこすりこすり蒲団たたんで。それで貴方様、お給金いうもんがおまへんのや。休みも半年にたった一日あるだけでその時に小遣三銭いただきます。一年で六銭だす。

なんし遊びたい盛りだしたさかいそれでは何ぼ何でも辛抱が続きまへん。それにわてはだいたいが子供の時分から芝居や見世物がほん好きだして、その時分は五厘あったら見られましたさかい、母親から小遣さえ貰えば芝居小屋や見世物小屋イ行てましたような按配で、奉公してましても、心がついそっちイ向いて、ああ今頃は道頓堀でやぐら太鼓がにんぎやか(賑か)に唱ってるやろな-と、こない思いますと、そわそわして来まして何にも手がつきまへなんだ。自分から飛び出したり、暇出されたりして、到頭二十三軒も奉公口を変えました。

そんな按配で、どこイ行っても尻が温もりまへなんでっさかい、父親もえらい心配して、その時分京都の寄席に出たはった吉田玉五郎はんいう人形遣いに、

「どないもこないも仕様おまへんねや」
と、わてのことこぼしますと、

「そない困ってるねんやったら、いっそのことわての所イ寄越してみなはれ」
というわけで、到頭玉五郎はんとこイ預けられました。なんでも十四かそこらの時やったと思います。

玉五郎はんとこで尻が落ち着いたかと、おっしゃるんでっか。へえ、そらもう貴方様なんし芝居や見世物ずきのわてが到頭芝居の仲間イはいったんでっさかい、前の奉公みたいなことはおまへなんだ。けど芝居いうてもたかが京都の場末の寂しい寄席だす。やっぱし道頓堀や千日前の賑かな小屋が懐かしゅうなって来ます。それに何といってもまだ十四やそこらだっさかい、親の許が恋しなります。ある日、玉五郎はんからお米買いに遣らされたその足で、到頭伏見から三十石船に乗って逃げ戻りました。

そこで父親も仕様なしに、わてを松島の文楽座イ連れて行って、文楽座の親玉はんの吉田玉造はんの息子はんにあたりはる吉田玉助はんの部屋イ連れて行て、
「よろしゅう頼みます」

言いまして、その時からわては玉助はんの弟子になることになりました。十五の暮れだした。

父親にしてみましたら、同じ人形遣いにするねやったら、寄席に出たはる玉五郎はんとこイ弟子とも奉公人ともわからんような恰好で預けとくより、いっそ檜舞台の文楽座のえらいお師匠はんとこイ正式に預けた方が良(え)えとおもったんでっしゃろ。それに何というても父親は文楽イ勧めてましたしまア親の傍で尻を温(ぬく)もらそ思ったんでっしゃろ。

二流文楽論

織田作之助

 二流文楽論などという、不景気な題をつけたのは、実は私の真意だ。少しは自嘲だが、多くは主張だ。主張は明らかにして置かねばならない。

かつて文楽は流行した。万葉ばやり法隆寺ばやりお能ばやりと同じ現象が、この落日の最後のあえかな明りのような、大阪の町人芸術に、文化への仲間入りを許したのである。この国では、文化人というものは猫でなければ杓子である。非文化人だけが食わずぎらいなのだ。文化人は食わぬ前から、好いているのだ。見ぬ前から、文楽の「よさ」を認めているのだ。「よさ」という言葉が漠然と意味しているもっともらしいものを、手っ取り早く掴むという文化的修学旅行のために、団体切符を買うのが、この国の文化人であった。彼等にとって急がば廻れとは、古本屋を廻ることであり、実地見学所を廻ることであり、ドサ廻りの文化評論家の意見をきくことであった。彼等は猫も杓子も文化の環状線をぐるぐる廻り、孤独の一本道をひとりトボトボ歩いて行く者はまれであった。この国では、文化とは最大公約数のようなものであり、文化人とはこの公約数で割り切れるという点に於て、大同し、猫と杓子が違う程度の小異しかなかった。そして文章が書けて、ひとが一行しか語れぬ所を十行にも百行にもひきのばして語る術と、ひとと同じことを喋ることを恥としない厚顔と、自分は有名で高級な文化人であるからいかなる問題についても意見を述べることが出来るという自惚れを持っているおかげで、文化の指導者顔をしている所謂文化的名士が、彼等を指導し、彼等の意見を気の利いた言葉でまとめるというのが、昨日にかわらぬ今日の現状だ。かくの如き文化人とかくの如き文化的名士!一篇の文楽芸談と一幕の立見とドサ廻り用美学をもとに、いかに多くの文楽話が語られたことか。考証と聞書の二杯酢につけるほかに、煮ることも焼くことも出来なかった文楽論が、佃煮にするという簡単な調理法で大衆化したのだ。しかし、佃煮の一つ一つが似ているように、何とそれらの文楽論が似たり、寄ったりであったことか。なぜだろう。

佃煮が東京で流行したように、文楽は大阪でよりも東京で歓迎された。しかし、文楽が東京で受けたのは東京での公演回数がすくないからで、大阪のように毎月の常打小屋があれば、せめて文楽だけは見て置こう、見るなら名人の生きている今のうちだとあわてて駈けつける文化人が、東京にはいかに多くいるとしても、恐らく毎月見に行きはしないだろう。文楽に陶酔している時の快感は、生理的に散髪の快感に似ている。が、同時に文楽の退屈感は、理髪店の待合所で備えつけの官報を見たり、理髪師免状や表彰状を見上げたりしている時の退屈さに似ている。退屈でも、お洒落は毎月欠かせないだろう。頭髪は放って置けば伸びる一方だ。しかし、文化人としての教養のお洒落は、一度見物して置けば、それで一応形がつく。あれが栄三、文五郎、古靭、サワリいいね、三位一体、人形づかいの顔や黒衣が邪魔にならぬ、人形に魂がはいっている、リアリズムとシンボリズムの違い、人形劇こそ最大の舞台芸術だ、思想は古いが、ポール・クローデルもハーゲマンもほめている。文五郎のお園のポーズの美しさ、栄三の方が渋いと云うがなるほどジタバタしないところは貫禄がある。汗びっしょり、声楽家でもあんなに声が続かぬ。人形重いだろう。随分労働だ、激しい修業をするそうだ。生活には恵まれぬらしい。気の毒だね。筋なんか判らなくっても結構見られるよ。妙な声だがあれがいいんだろう。さすがに古靭品があるわ、文楽精神うたれるよ。絵葉書売店で買って帰ろう。まだ一幕あるが三宅周太郎がけなしていたから、見なくてもいいだろう。よし、判った、文楽のよさが判った。-と、帰ると、もうそれで一かどの文楽通らしく文楽を語るのだ。文章にも書く。退屈したが、退屈したとは書かない。喋る時はお転婆娘か悪所通いの男のようでも、書く時は見合写真のように、つつましやかな処女か汚れなき童貞に見える必要がある。古靭よりも南部や伊達太夫の美声の方が気に入ったと書いたり、栄三のよさは判らぬと書いたりすれは、芸術の判らん男と思われるから、古靭と栄三をほめて置く。たちまち文楽論が出来る。出来る筈だ。エノケンとロッパとどちらが高級であるか、あるいは低級であるかという問題について論ずるよりも、栄三の渋さが文五郎の絢爛さよりも芸の品格が高いと言い切る方が、容易なのだ。なぜなら、エノケンとロッパの問題は、人それぞれの好みで判定してもいい問題だし、それに定評というものがないから、すべてみな自分の言葉で語らねばならない。しかし、栄三と文五郎の問題は、あたかも里見?(とん)の巧妙無類の饒舌的文章も志賀直哉の簡潔な文章にくらべると、芸の品格が落ちるという見方が、既に文壇の動かすべからざる定評であり、これに異を樹てるのは即ち権威への反逆だということになっているのと同様に文五郎の艶っぽい派手さは俗受けで、栄三の渋さこそ入神の名人芸だという定評が既に犯すべからざる権威となっていて、敢て文五郎を立てんとしても、汝未だ文楽を論ずる資格なし、もっと勉強せよと一笑に附されてしまう。一事が万事、さまざまな定説に従って置けばまず間違いなしで、お好みの一品料理よりも定食の方が便利で簡単で充実しているわけであろう。下手に凝って、盲目減法にメニューを指さしたために、デザートとスープだけを註文して笑われるより、定食一点張りの方が恥をかかずに済むというわけではなかろうが、しかし文楽に於けるかずかずの定食とはもはや一種迷信的なものになっているのだ。そして、この定説というものがあるおかげで、文化人は文楽を理解したような気になるのである。人形浄瑠璃芝居とは元来が大阪の庶民と一部の好事家相手の町人芸術であったのだ。けっして文化人の肌に合うものではなかった。それが突然文化人の興味-というより畏敬の対象になったのは、スタンダールのいわゆる結晶作用が起ったためではあるまいか、ただの人形浄瑠璃が「文楽」という観念のヴェールをかぶったのである。はじめに観念があったわけだ。「文楽」というこの観念のおかげで、人形浄瑠璃芝居は美化され理想化されたのである。新興宗教が、奇蹟によって信者を獲得するように、文楽は「文楽」という最上級の観念によって信者を獲得した。文化人は奇蹟に対しては疑惑的だ。しかし、奇蹟の具体性を最上級の観念の抽象性に代置すれは、もはや文化人は最も狂熱的な信者になり得るのである。宗教の名に於ては狂信しないが、芸術の名に於ては狂信するのである。即ち、彼等は文楽を最上級の芸術と見たのである。

そして、これらの信者の先頭に立ったのはいわゆる文楽教の使徒たる文楽研究家たちであり、彼等の書いた一流文楽論は文楽の福音書であった。私の二流文楽論はことの成行としてそれらの一流文楽論への一種の疑義である。

一流文楽論とは、一流の論者が文楽が一流芸術である所以を強調するために、あるいはそれを前提として、文楽の一流芸人を語ったものである。かつて文楽について書かれた文章はすべてそれであった。文楽を語るとは即ち、団平、玉造、長門、大掾、津、古靭、土佐、栄三、文五郎等のいわゆる名人、恵まれざる文楽の人たちの中で最も恵まれた人たちを語ることであった。しかし、私は今、これらの恵まれた人たちのかげに埋もれて、一生パッとしたところもなく、下積みの生活、縁の下の力持ちの境遇に甘んじてきた人たち、甘んじている人たち、今後も甘んじて行くであろう人たちのことを、ポソポソと不景気な声で語ろうと思う。いわゆる一流主義に対する二流主義、英雄主義に対する凡俗主義、それがこの二流文楽論なのである。語られる人もいわゆる二流だが、語る私も二流だ。文楽が二流芸術である所以を説明するために、あるいはそれを前提として、二流論者が二流芸人を語るあわれな二流文楽論なのだ。

ここまで書いた時「文楽の人」というささやかな本が東京から送られて来た。実は私の著書なのだ。昭和十七年の末に書いたものだが当時出版を許可されず。最近やっと上梓の機を得たものである。「文楽の人」は当時一流文楽論の信者であった私が、栄三、文五郎の評伝を小説風に書いたものだけに誇張と迷信が各頁に氾濫しているとはいうものの、既に二流文楽論の萌芽が感じられぬわけでもない。しかし、私は文楽を二流だと主張することによって、文楽を軽蔑しようという気持はない。私はただ自分の誤謬を訂正したいと思うだけだ。訂正するつもりが、かえって誤謬を重ねることになるかも知れない。誇張を避けることが、反動的にさらに私を誇張させるという結果も予想される。しかし誇張と誤謬を避けて、いかなる芸術論が成立するだろうか。こんな場所へ、ヴァレリーの、しかも、これまでたびたび私が引用して来た言葉を利用するのは、芸のない話だが、便利だから阿呆の一つ覚えに使えば「われわれは一つの誇張乃至気取りを避けるためには、他の誇張乃至気取りに陥らざるを得ない」のだ。そしてスタンダールを皮肉ったヴァレリーのこの言葉すら、既に誇張乃至気取りを含んでいると思えば、もはや私は毒を以て毒を制するよりほかに仕方がない。そして、私は毒を薄めて使うほど賢明でないから、今はもうはっきりと言うが、文楽が二流芸術であると同様に、この国の文学もまた二流である。すべて二流だ。

無論、一流という言葉にも、ピンからキリまでさまざまな意味はある。例えば、かつて東京に一流会という社交団体があって、将棋の木村名人はその会員であったときいている。一流会の会員になるには一流人物であるという資格が必要だったから、会員の木村名人は自他共に一流人物だと認めたわけであろう。木村名人は人と雑談している最中に、話の順序とは関係なしに、突如として「何といっても将棋ではおれが一番強いんだから……」と言う癖があるそうで恐れ入る外はないが、しかしこの名人も最近大阪のある新聞で企画した升田七段との五番試合で、まだ三十歳になるやならずの升田青年に香落、平手の二局を続けざまに破られて、続く第三局は狼狙した将棋大成会の方で予定通り打つべきか見合わすべきかと目下考慮中だという噂がまことしやかに伝えられているところを見ると、名人の日本一も、大分怪しくなって来た。升田七段はその対局のことで、新聞社へ現れた時、社の人たちは復員闇屋が来たと思ったくらい、みすぼらしい影の薄い印象を与えたそうだが、このショボショボした青年が七段にして名人以上の棋力を備えていたのである。しかし、棋力は名人以上でも、いわゆる一流人物として、即ち一流会の会員たるの資格の点から見て、升田が木村の上位にあるとは、いかな私でも断言できない。升田七段は雑談中共産党をどう思うかと質問された時、「共産党は将棋が流行している間は、あきまへんな。将棋は王将を大事にするもんやさかい」と、異色ある返答をしたというが、しかし、この独創的な言葉も、社会的に一流の資格を与えられるかどうかという点では、升田七段にとって遂にマイナス以上に出ない言葉である。そして、そういう意味に於ては、この国の作家たちはすべて一流の資格を持っている。数多い専門棋士の中でも、一流の資格を持っているのは、わずかに木村名人ひとりだというのに、作家たちはいとも簡単に一流になっているのである。この国で名士になるには、作家になるのが一番の早道だ。升田七段のような天恵の才能を待ったいわゆる天才は百年に一人しか出ないが、しかし、一年に数人ずつ文壇へ送り出される作家たちは一寸小説を書くすべを知っているというだけで、またたく間に名士になり、その心掛け次第で社会的に一流たり得るのである。しかも、彼等は将棋の三段ほどの天恵の才能を持っていないのである。

思えば、この国では一流作家が多すぎる。しかし、彼等は社会的には一流かも知れないが、文学的には全部二流なのである。そして絶対に一流たり得ないのだ。われわれは文学文学という時、つねに一流文学の観念を、念頭に置いている。文学とは即ち一流文学である。つまり最上級の文学へのノスタルジアで文学を論じ、作品を作っているのである。宗教家が最上級の観念としてのキリストへのノスタルジアを持っているように、作家は最上級の観念として一流文学を持っている。しかし、いかなる宗教家もキリストになれないように、いかなる作家もおいそれと一流作家になれるわけではない。ゲーテやトルストイやドストイエフスキイやスタンダールは、千年に一人の天才なのである。この国の作家たちはすぐ天才扱いをされるけれど、彼等の天才ぶりは将棋の升田七段にも及ばない。彼等が真に天才ならば、ゲーテ、トルストイに匹敵する一流文学が作れる筈だ。しかし、彼等にとって一流文学とは遂にノスタルジアに止るのである。観念として持っていても、遂にそれを実践することは出来ない。天は彼等に一流文学を作り得るほどの才能を与えていないのである。彼等が与えられたのは、一流文学へのノスタルジアを抱きながら、せっせと二流文学を作るという程度の才能でしかない。逆立ちしたって、一流文学は作れないのだ。まごう方なく二流作家である。彼等がこの国で一流作家として通っているのは、彼等が二流たることを自覚して、われ二流なりと言い切らないからである。一流という言葉がこの国でどんな卑俗な意味に使われているにせよ、既に彼等の文学を二流の地位に引き下げるほどの一流文学を古典として持っている以上、いち早く一流作家という肩書を返上して、二流たることを宣言すべきではあるまいか。

もっとも、彼等は文学の道に足を踏み入れた時、既に一流文学としての文学観念をノスタルジアとして持っていて、それにひきずられて文学者たらんとする悲壮なる覚悟を抱き、一流文学の真似事をして来たのであるから、今日に及んで二流たることを宣言することは、キリストを裏切って異端者にならんとするほどの苦痛を感ずるに達いない。エピゴーネンでもいいから、一流文学としての文学の観念へのノスタルジアを抱きつつ、その真似事をすることによって二流文学たることのそしりからまぬがれようと思うのも、無理はない。批評家(専門の批評家、作家兼批評家、読者、作家の中に棲んでいる批評家のすべてをひっくるめて)というものは、宗教家がキリストの名に於て口を利くように、批評家自身の観念として持っている一流文学としての文学の名に於て、彼等の二流文学を批評するからである。そして、彼等がこの国の作家たちの二流文学を、一流文学でないという理由で、あるいはこきおろし、あるいは慨嘆することは、大いにもっともであり、一応正しい批評精神のあらわれであろう。しかし、絶対に一流たり得ないこの国の作家たちを、一流でないという理由でこきおろすのも、考えてみれば二階から目薬に似たようなものだ。しかも、批評家自身けっして一流ではあり得ないのだ。批評家は一流文学を勉強し、一流文学としての文学の観念を抱き、その名に於て批評しているおかげで、自分自身を一流だと錯覚しているかも知れないが、二流文学をやっつけたからとて、彼自身一流たるとは限らない。この国の批評家の多くは、二流文学をつくる才能すらない許りに、批評家に転向した、いわば二流作家になり損いの二流評論家なのである。思えばこの国の文壇は、二流評論家が絶対に一流になり得ない二流作家の作品を、一流でないという理由で慨いているという現状を、当分続けて行くだろうと、言えぬこともない。

一流たり得ないとは、実にわれわれが生れながらにして背負っている宿命なのだ。してみれば、われわれはもはや一流文学の真似事で自分をカムフラージュせず、二流文学者として徹することに、新しい道を見出すほかはないと、私は独断する。ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」やケストネルの「ファビァン」、ジャン・ポール・サルトルの「水いらず」 「反吐」など新しい文学は、明らかにいわゆる一流文学としての文学の観念への反逆であり、彼等が二流文学の選手たらんとしたからこそ、新しいスタイルが生れたのではあるまいか。一流文学へのノスタルジアを断ち切らぬ限り、このような新しい文学は作れぬのである。彼等はすくなくともエピゴーネンではない。エピゴーネンとは、一流の模倣しか出来ぬ、しかも二流に徹し得ない自分を一流と思い込んでいる二流の謂だ。現代アメリカの作家中で、すくなくとも私を最も感心させたヘミングウェイの作品なども、一流文学の模倣でないところにその面白さがある。この国には一流文学へのノスタルジアを、自然主義的私小説に見出している律義者がいるけれども、批評家が同じノスタルジアでかくの如き律義者を文学の名に於て推賞している限り、新しいスタイルの出現は永久にはばまれるかも知れない。しかし、その障害を飛び越えて行くのが二流に徹した二流作家である。

太宰治、坂口安吾に私が誰よりも期待するのは、この点である。彼等の新しさはすくなくとも二流に徹した新しさである。ある仏文学者が、荷風の如き大家が為永春水の如き戯作者を模倣するのはなげかわしいと言っていた。私はなげかわしいとは思わなかったが、不思議には思ったこともある。しかし、荷風の如く西欧の一流文学に親んで来た作家が、突如として春水を師と仰いだのは、荷風は荷風たりに二流作家に徹しようとした発願の現れではなかろうか。荷風は二流作家としての自己の道を見出したが、しかし、それが江戸時代への逆行であっただけに、新しさはあり得なかった。しかし、一流を模倣して遂に一流たり得なかった島崎藤村のにせ一流ぶりよりも、私は荷風の二流ぶりに賛成したい気がする。一流ぶりと二流ぶりの混乱した例は高見順である。高見順は作品の題名をすべて詩歌から取るというところに、まず一流ぶりと二流ぶりの混乱を示している。この題名の点では、たとえば通俗作家がせめて題名の点だけでも、文豪の詩や聖書からひき抜いて来るという堕落へのカムフラージュよりも、高見順の作品が通俗小説でないだけに滑稽感がすくないが、「わが魂の告白」は彼の一流ぶりである。この一流ぶりは、果して好評を博したが、二回三回とつづいているうちに、早くも二流の馬脚を現わした。しかし、私はこの馬脚を彼の二流ぶりがキラキラ現われたものとして、面白いと見ている。「わが魂の告白」をライフワークなどと一流ぶらないで、しどろもどろの弁解や、四方八方への気兼ねに二流の真髄を発揮すべきではあるまいか。どうせ、筆舌には出せず、胸の底に秘めて置かねばならないこともあるという自伝的告白であってみれば、一流ぶりも限度があり、借物のスタイルを自家の薬籠に入れた饒舌体の二流ぶりに徹する方が、よしんば彼を大家にすることをさまたげるとしても、新しい二流文学のためには意義があろう。描写のうしろに寝ていられないスタイルのデカダン化こそ、二流の自覚なのであり、それが一流と対決するのではあるまいか。二流は二流としての主張を持つべきであり、二流を一流めかして粉飾してはならない。しかし、舟橋聖一は一流ぶりからのデカダンスとしての二流に落ちながら、二流文学としての主義を忘れた点に、いかがわしい海千山千があり、二流文学の俗化である。二流文学もまた高貴ある文学であり、新しい文学運動の気配が、二流文学への献身から生れんとしつつあるとはサルトル等の新興フランス文学を読んでも判るのである。かつての新感覚派、ダダイズム、新心理主義、形式主義などは何れも二流文学としての新しさであったが、これらの文学運動の選手たちは、何れも一流の奥床しい魅力に屈服してしまったのだ。文学の運命を悲壮に説いた北原武夫は、彼の作品に運命が感じられず - 思えば、誰もかれも二流であることを隠したがる。二流であることは佗しいことには違いない。芸術家にとって、自分達の芸術が二流であると自覚するほど悲しいことはない。しかし、芸術とは神への挑戦である。神がつくった自然とはべつに、第二の自然をつくろうというこの大それた仕事の才能が誰にも与えられるわけではない。作家としてのモラリッシュ・ポーズから、二流であることを隠し、殊勝な顔をしてミューズの祭壇に祈りを捧げれば、ミューズは喜ぶだろうが、しかし女神というものはつねに取巻き連に対しては冷酷なのである。一流扱いをされて閉口している文楽の人たちの方が、文壇の人たちよりもはるかに正直ではあるまいか。

文楽の人たちは文楽を一流芸術だとは思っていないのだ。まして自分たちを一流の芸術家とは思っていない。この人たちは何れも大阪の市井の俗人に過ぎない。名士になろうという野心もない。大きな邸宅など構えて、一流人らしく収まりかえったりするような真似は出来ない。「号外」を「ボウガイ」と言って、人に指摘されると、「なんや一字だけの間違いやないか」と言う。自分の住んでいる家の所番地も言えない人間も文楽にはいるのだ。「土佐は賢こすぎる。古靭は学者すぎる。津太夫は阿呆すぎる」と言った人があるが、土佐、古靭を除いて、津太夫を筆頭にみな阿呆であった。誰かが秋声を無学文盲と評したが、どこか秋声と似かよう津太夫は紋下までなりながら、一流人の面影はなかった。一介の市井人であった。寄席芸人とそう違ったくらしはしていないのだ。いや、彼等の見物である大阪の庶民が住むような家に、彼等も住んで、同じ銭湯にはいっている。長屋ぐらしもしている。自分が無学文盲なので、学問の出来る女房を貰えば、賢こい子供が出来るだろうと思って、貰ったのが小学校の女教員だったという人もいる。みんなその程度の考え方なのだ。そして一生うだつが上らず、ショボショボと下積みの芸人としての一生を文楽と共に送るのが、彼等の大半である。ある人は五十年間足だけしか使えなかった。ある人は一生口上使で終ってしまった。ある人は人形の修理で一生を終った。ある人は大序のままで終り、ついに拍手の来るサワリを語る機会がなかった。そして、このような真の二流の人がなければ、文楽というものは興行できないばかりでなく、文楽というものを代表しているのは、実にこうした真の二流の人たちなのである。名人がなくなれば文楽は亡びると思われている。私も一時は迷信的にそう感じたが、名人がいなくなった文楽は、恐らく場末の二流芸術として生き残り、わびしい、卑俗な、二流の芸を、庶民相手に見せながら、文楽というものが結局小市民の二流の芸術であったという点を明らかにするのではあるまいか。そして、その時こそ、文楽の忘れられていた魅力が改めて甦るのではなかろうか。

以上述べたところは、前書きだ、次にはそれらの二流文楽人のことを語りながら、以上述べたところを敷衍するつもりである。