旅行へ行けないときはオンラインカジノ

旅行に行けない多忙なとき~オンラインカジノのすゝめ~

旅好きにオンラインカジノのすすめ毎日同じ時間に起きて、毎日同じ電車に乗って、毎日特に代わり映えのない仕事をして、そして帰って寝るだけ。

刺激もなく、気がついたら1週間、1ヶ月、1年…とあっという間に過ぎていく。

そんな退屈な日常の繰り返しから一旦離れて、「非日常」を楽しめるのが旅行の一番の醍醐味ではないだろうか。

いつもとは違う土地で過ごすだけでも、日々の悩みから解放され、気持ちをリフレッシュすることができる。

しかし、仕事や家庭で忙しく、旅行できるようなまとまった時間を確保できないという方は多いのではないだろうか。

また、2020年から始まった「新型コロナウイルス」のような感染症の拡大があれば、気軽にお出かけができなくなることもある。

旅行好き、お出かけ好きにとっては、旅に出られないことが大きなストレスになってしまう。

そこでオススメなのが「オンラインカジノ」だ。オンラインカジノを利用すれば、スマホ、パソコン、タブレットがあれば24時間いつでも、場所に縛られることなくカジノゲームをプレイできる。(詳しくは→ https://www.casinosecret.com/ja/online-casino/

スロットやルーレットといった定番ゲームはもちろん、「ライブカジノ」では、外国人ディーラーとリアルタイムで勝負することもできるのだ。本場のカジノで遊んでいるような臨場感を味わうことができるだろう。

まさに旅行好きが求める「非日常」を、オンラインカジノは体感させてくれる。しかも、時間や場所に縛られることがないので、多忙な時でも隙間時間で遊ぶこともできる。

ただ、カジノと聞くとどうしても「違法なのではないか?」という不安がよぎるかもしれない。確かに「違法カジノ」「闇カジノ」という言葉もよく耳にするし、有名なスポーツ選手も逮捕されている。

そこは安心して欲しい。オンラインカジノは、カジノが合法となっている海外の国で、きちんとライセンスを得た上で運営されているので、法律的には問題がないからだ。

また、日本の賭博法では「プレイヤーの逮捕は、胴元(運営者)の逮捕に付随する」とされている。運営者は海外にいるので、日本の法律では胴元を逮捕することはできない。よって、オンラインカジノを日本でプレイしても、逮捕される可能性はほぼないと言えるのだ。

「多忙で旅行に行けない」「旅行にいけなくてストレスがたまっている」という方に、「非日常」を味あわせてくれるオンラインカジノをぜひオススメしたい。

もちろんギャンブルなので、のめり込みすぎると大損をしてしまう可能性もある。節度を守って遊ぶことは忘れないで欲しい。

ギャンブルの旅をネットで検索してみた

ギャンブルの旅はマカオがおすすめ

カジノの旅先としてはマカオが良い。カジノと言えばラスベガスのイメージが強いかもしれないが、実はカジノ産業での収益において、マカオはラスベガスの上を行く。

今後も様々なカジノができるらしいから、それを目当てに定期的にマカオに向かうのも面白そうだ。

マカオへのカジノツアー料金はとにかく安い。

行き先がラスベガスだと料金が平気で2030万円を超えてくるが、マカオであれば10万円を切るツアープランがざらにある。

もちろん単にカジノを楽しむだけでなく、マカオの世界遺産や、香港のディズニーランドを満喫しつつの値段だ。20万円以上出せるのであれば、一流ホテルに宿泊することもできる。

ギャンブルの国内旅はどうか?

ギャンブルの国内旅をするならば、日本の法律上、当然「公営ギャンブル場」を回ることになる。

最も難易度が低いものと言えば「中央競馬10カ所制覇の旅」だろう。

札幌、函館、新潟、福島、中山、東京、中京、京都、阪神、小倉。10カ所の中央競馬場全てに足を運ぶのだ。

競馬というギャンブルで興奮しつつ、地元のグルメ・有名スポット・祭りなども楽しもう。

大勝したのであれば、払戻金をその地で派手に使うのも一興だ。

オンラインカジノであれば卓上ギャンブル旅行ができる

「卓上旅行」という言葉をご存じだろうか。

そう。「観光地の資料などを集めて旅行日程を立てて、実際には足を運ばずにその地に思いを馳せる」というものだ。

実は、オンラインカジノを利用すれば「卓上ギャンブル旅行」ができる。

卓上ギャンブル旅行を楽しむ上で特におすすめなのが「ライブカジノ」だ。

ライブカジノでは「人間のディーラー」が相手になる。

つまり、現場の雰囲気に限りなく近い状況でカジノゲームを楽しめるということ。

調べてみたところ、ラスベガス、マカオ、シンガポール、北京、マニラなどのカジノ場を再現したライブカジノが特に人気のようだ。

その地の事を想像しつつディーラーとの、オンラインブラックジャック、オンラインポーカー、オンラインバカラなどを楽しんでみよう。

単なる卓上旅行の場合は、あくまで想像することしかできない。

しかし、インターネットカジノであれば、本当にカジノゲームをプレイすることができてしまう。

なんと素晴らしい事だろうか。

ちなみに、大手ネットギャンブルサイトの大半は日本語対応だから安心だ。

ただし、日本語非対応のオンラインCasinoも一部あるようだから気を付けよう。

ジョイタイム渋谷店閉店

さよならJoytime
(2011年2月28日 ジョイタイム渋谷店閉店)

 今月(2011年2月)限りで、ジョイタイム渋谷店が閉店するというニュースを、たまたまジョイタイムに出かけ入口の張り紙で知った。
ジョイタイムを初めて知ったのが小学生の時、このお店は当時小学生の私にとってすら財布に優しいお店だった。
ジョイタイムを知らない人には、張り紙を見た後、私が注文した「パンケーキとホットコーヒー」の会計が220円だったと言えば、この店のスゴさが伝わると思う。私の知る限り、ガストやすき家など、デフレ社会の勝ち組と言われる外食チェーンの誕生前から存在し、その安さ(コストパフォーマンスの高さ)は、バブル期、平成不況などの経済的要因に左右されず常に抜きんでたものだった。
正直に言えば、何年もこのお店から遠ざかっていた時期もある。無類の安いモノ好きだった私も、思春期に入り子供時代の行動パターンから脱する時期があり、お気に入りだったジョイタイムからも足が遠のいた。仲間内では、「ジョイタイム(ジョイタイとも呼ばれていた)が好き」というのはイケてない証拠と見られた時期もあった。

そんな私も、数年前、久しぶりにこのお店を訪れ、記憶の奥底にあるままの変わらぬ安さと覚えている限りは小学生の頃のままのメニューにうれしい驚きを感じた。渋谷駅からリアルに徒歩2~3分というロケーションで、パンケーキ110円、ホットコーヒー100円(2008年当時)というのはありえない安さで、多分20~30年間ほぼ同じ値段だったのではないだろうか。同時に、なぜこのお店が、すかいらーくやデニーズ、ロイヤルホストのようにならなかったのか?という大きな疑問が湧いてきた。目黒店など一時期は数店あったジョイタイムもこの時点で、渋谷店一店舗だけになっていた。ガスト、すき家、ジョイタイム、サイゼリア(この並びは何でもイイが)の4店が並んでいたら、私ならば迷わずジョイタイムに入る。今からでも全国的にチェーン展開すれば外食産業界の勝者になるのではないか?とすらその時に思った。
それ以来、数年に渡り観察し、この疑問について考え続けてきたが、結局、店の入り口の張り紙のとおり、ジョイタイムは無くなってしまう。私の子供時代、ジョイタイムの客層はティーン・エージャーが中心だったが、ここ数年は私を含め客層の年齢は当時より相当に高いものだった。昔の私のような、小・中学生をこの店で見たことは一度もなかった。昔は、店に入るために、ずいぶんと並んだという記憶があるのだがいつもすんなり座れていた。直接、疑問への答えにはつながらないが、最近のジョイタイムにはこんな印象を持っていた。
20~30年といえば、この店の経営者が、20代で創業していたとしても、今では壮年にさしかかる計算になる。子供がいれば、開店時に生まれた子も成人している。事業欲の原動力にも成り得る「イイ車に乗りたい。」「イイ家に住みたい。」という欲もそろそろ薄れる年代なのかもしれない。根拠は無いが、野心やアニマルスピリット(企業家の投資行動の動機となる将来に対する主観的な期待)が欠けていたというのが今のところ、この店がガストやサイゼリアのようにならなかった理由の私なりの答えだ。

安売りは不況の原因とも名指しされ、デフレ脱却が叫ばれる今日この頃だが、「モノを安く売る」というのは、商売人の一つの夢だと思う。新入社員の前で、数学の問題を解くことが好きなことで有名な外食チェーンの経営者が、食材仕入れのスケールメリットについて力説している雑誌記事を読んだことがある。一店舗で、自分の何百、何千倍ものサイズを持つ外食チェーンと同じ、時にそれを超えるコストパフォーマンスを維持し続けたこのお店は一つの夢の形だったのではないだろうか。2月中であれば、100円ちょっとで、一枚づつ鉄板で焼かれるパンケーキを食べることもできる。閉店前に、このお店を知っている人も知らない人も出掛けてみたらどうだろうか?
このお店の姉妹店、同じく安さで有名な「ブラックブラウン」の営業は今後も続き、スタッフの一部はこちらのお店に移動するという。

Joytime 渋谷店

〒150-0031 東京都渋谷区桜ヶ丘16-13 地下1階
TEL 03-3464-0937
平日 07:30~22:30
土日祝 10:00~22:30

ミルかつプレート 780円
ハンバーグカニコロセット(ライスorパン、スープ付)730円
ハンバーガーコンビ 560円
おろし豚かつ 530円
野菜とベーコンドリア 520円
ドリンクメニュー単品(ブレンドコーヒー、紅茶、アイスティー、コカコーラ、その他)150円 など

今回の閉店について、我が国において価格統制が存在する“小麦粉”を主原料とする“パンケーキ”に関しては、大手チェーンと同じ土俵上で価格競争ができるジョイタイムも、他の食材については大手外食チェーンと仕入れ価格に大きな差があり苦戦していた。というのが冷静な分析なのかもしれない。
平成23(2011)年2月28日閉店

平成23(2011)年2月12日

 有名句 634

正岡子規の俳句を子規直筆の原稿で味わうショートタイムトリップ。

正岡子規 有名な句
明治24年
春の句
鶯や山をいづれば誕生寺

夏の句
軽井沢

山山は萌黄浅黄やほとゝきす

涼しさや行燈消えて水の音

秋の句
三津いけすにて

初汐や帆柱ならぶ垣の外

冬の句
冬かれや田舎娘のうつくしき

明治25年
新年の句
簑一枚笠一個蓑は房州の雨にそほち笠は川越の風にされたるを床の間にうやうやしく飾りて

簑笠を蓬莱にして草の庵

元朝や皆見覚えの紋処

春の句
死はいやぞ其きさらぎの二日灸

石手川出合渡

若鮎の二手になりて上りけり

松山堀端

門しめに出て聞て居る蛙かな

五器の飯ほとびる猫の思ひかや

妹が門つつじをむしる別れ哉

伊予太山寺

菎蒻につつじの名あれ太山寺

上野

黒門に丸の跡あり山さくら

夏の句
一つつゝ流れ行きけり涼み舟

夏やせを肌みせぬ妹の思ひかな

京東山*

どこ見ても涼し神の灯仏の灯

身内の老幼男女打ちつどひて

鯛鮓や一門三十五六人

とも網に蜑の子ならぶ遊泳哉

短夜や砂土手いそぐ小提灯

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注 上記有名句は、『寒山落木抄』、『獺祭書屋(だっさいしょおく)俳句帖抄 上巻』、『子規句集 (河東碧梧桐 高浜虚子共編)』等の句集に複数掲載されている句、『子規句集講義』、『子規句解』等の複数の句講に掲載されている句などを抽出して作成しています。

文楽ブログパーツ

 去年、さいたまスーパーアリーナで行われたビヨンセのライブで写真撮影がOKだったというのを聞いて、少し驚いた。

音楽売り上げがCDからネット配信に移行していく中、楽曲販売のマーケット規模は縮小しつづけており、『ライブで稼ぐ』というのが世界的な潮流になっている。マドンナをはじめ、アーティストの中には、CDやアルバムなど楽曲の制作と販売で利益を上げる従来のビジネスモデルには必要だったレコード会社との契約を打ち切る動きもある。CDを売ることが音楽ビジネスにとって重要でなくなると、必然的に、CDや楽曲のネット販売にとって重要な鍵である著作権への対応も緩いものになって行く。極端な例として中国やブラジルのアーティストは、知名度を上げるためネットで楽曲の無料配信をした上、自分たちでCDは無料で配布、海賊版CDの製造販売も黙認するといったこともあるようだ。知名度が上がることによって、自分たちのライブの入場者が増える。音楽フェスティバルの出演料が上がる。ライブツアーに、企業スポンサーが付き安定した収入が得られるなどのメリットが考えられるという。
ビヨンセの判断も、中国の無料でCDを配り海賊版を黙認するアーティストの判断も、その根底には、いわゆる「注目経済」への対応があるハズだ。ビヨンセのライブで写真を撮った観客の何%とかは、ライブの感想とともにその写真もブログにアップするハズだ。ライブで稼ぐためのプロモーションと捉えれば、どんなことも正当化できそうだ。

ここまで、一言も触れていないが、賢明な読者の皆様は、このページのテーマが『文楽』であることにお気づきと思う。旅行をテーマにした当ウェブマガジンにとって、大阪での文楽鑑賞はイチ押しの過ごし方だ。文楽を鑑賞することは、大阪を訪ねた旅行者にとっても文楽にとっても良いことだと考えている。数年来、文楽鑑賞のプロモーションを行うことは当ウェブマガジンのテーマの一つになっている。
「I LOVE NY」のロゴ。NYの部分を文楽にしたデザインのロゴを作り、ウェブページの一番上に張り付けてみて、このロゴの持つ訴求効果には少し驚いた。何の工夫もないと言われそうだが、文章だけでどんな美辞麗句をつらねるよりもストレートにイメージが伝わっているのではないだろうか。あなたも、文楽に関することをブログやサイトに書く機会があれば、ストレートすぎてちょっと照れくさいかもしれないが、このロゴを貼りつけてみるのはどうだろうか。

注 このページの『I Love 文楽』ロゴ使用にあたっては何の条件もありません。

『I Love 文楽』ロゴの使用について

『I Love 文楽』ロゴ画像ファイルをダウンロードし、商用、非商用を問わずご自身のウェブサイト、ブログのサーバーに自由にアップロードし、使用することができます。画像ファイル分のディスク容量を節約するため、各画像に用意されたHTMLソースを貼り付けることで、ウェブサイト、ブログにロゴを表示することも出来ます。ウェブサイトやブログでロゴの再配布をすること。デザインを変更することも自由に出来ます。

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文楽の人

織田作之助

吉田栄三

焔の夜が明けると、雨であった。焼跡に降る雨。しかし、その雨もなお焼跡のあちこちでブスブスと生き物の舌のように燃えくすぶっている火を、消さなかった。そして、人々ももう消そうとはしなかった……。
人々はただもう疲れ切った顔に、虚脱した表情をしょんぼりと泛べて、あるいは焼跡に佇み、あるいはゾロゾロと歩いていた。呆然として歩いていた。ポソポソと不景気な声で何やら呟いているのは、自分たちをこんな惨めな人間にしてしまった軍部や政府への呪いであろうか。もう負けやなアといっているような声であった。
ゾロゾロと数珠つなぎにされたように歩いて行く。歩いていることだけが生きている証拠であるように歩いて行く。力なくとぼとぼと……。東条の阿呆んだらめ、オッチョコチョイめ、あいつも死ねばよいと歩いて行く。誰も傘をさしていなかった。雨の冷たさなどには、もう無関心になっているのだろう。
私だけが傘を持っていた。私はしかしすぐ傘を畳んでしまった。そして、それがまるで焼跡の壕の中から拾い出した唯一の品であるかのような顔をして、歩いた。焼跡見物に来ている男だと、思われたくなかった。
郊外に住んでいるので、私は焼け出されなかった。しかし、私の心の中に住んでいる大阪、そして私自身の郷愁がその中に住んでいる大阪、私の知っている限りの大阪は焼けてしまった以上、私もまた同時に焼けてしまったのと同然だった。
船場も焼けた。島ノ内もなくなった。心斎橋も道頓堀も、そして「夫婦善哉」の法善寺もなくなってしまった。東条の阿呆んだらめと、私も呟きながら、千日前から日本橋一丁目へ、そして盤舟橋を過ぎ、下寺町の方へ歩いて行った。
下寺町の停留所附近。ここにも何一つ残っていなかった。そこには私が「夫婦善哉」の中で書いた蝶子のサロン蝶柳があり、「立志伝」や「わが町」で書いた佐渡島他吉-刺青(がまん)の他アやんの人力車の客待場があった筈だ。実際にあったのかどうかは問題ではない。すくなくとも私にとっては、あった筈なのだ。が、もうその名残りをしのぶ何のよすがもない。
戦争などしなければ……と呟きながら、私は下寺町の坂を登って行った。谷町九丁目。そこから一つ東寄りの筋を右へ折れると、上汐町だ。そこに私の生れた家がある。今、七年振りにその家を見に行くのだ。が、果して、あるかどうか……。行ってみると、無論なかった。茫漠たる焼跡の一点でしかなかったのだ。私は自分自身がその一点と同じようになってしまったような気恥かしさを感じて、こそこそと立ち去ろうとした途端、
「あ、そうだ、この近所に栄三(えいざ)の生れた家があった筈だ」
と、思い出した。
上汐町筋の一つ東の筋の濃堂(のど)町(野堂町とも書く)で、栄三は生れたのだ。栄三とは文楽の人形使いの吉田栄三だ。本名、柳本栄次郎。明治五年東区濃堂町に生る-と私は記憶していた。
しかし、濃堂町のどこの角を曲って何軒目か、あるいは、何屋と何屋の間の家であったかを、私はまだ調べていなかった。それさえ調べて置けば、栄三の生れた家はあるいは少年の私がその前を通るたびに立小便する癖のあった家であったかも知れず、なつかしさも増そうものだのにと、私はふと後悔したが、しかしまた思えば、よしんば調べて置いたところで、今となってみれば、同じことだ。私の少年時代の想い出も栄三との因縁も、家もろとも昨夜のうちに灰になってしまったのだ。調べて置いた家の焼跡に佇んでいたところで何になろう。
それよりも、帰って栄三のことを今のうちに知っていることだけでも書いて置いた方がいい。私が書かねば誰も書くまい。私は雨に濡れて、再び下寺町の坂を降りて行った。
人々はやはりゾロゾロと歩いていた。どこへ往くのか、どこへ帰るのか、ゾロゾロと歩いていた。

大阪・大阪

織田作之助

ついぞこれまで大阪の悪口をいったことはなく、それどころか、東京の新聞や雑誌に大阪のことを書くときは、随分あれこれと思案して、ときには古い大阪まで持ち出して、褒め言葉ばかり、これもみな大阪を愛しているためではあったが、しかし、いま大阪の新聞の、ことに大阪の人ばかりが読む大阪版に、書こうとする段になると、つい気がゆるんだのか、まっさきに頭にうかぶのは、大阪の悪口である。とはなんとしたことか。

たとえば、二三日前、四ツ橋畔の文楽座の前を通りかかると、人形芝居はかかっていず、代りに名画週間の看板が出ていた。やれやれ今年もまたかと、私は汗を拭いた。毎年夏になると、文楽は巡業に出る。旅から旅へ、七十の老体である文五郎や栄三が真夏の巡業を続け、ほとんど三日目ごとに出し物をかえ、練習の暇もなく、何貫目もある人形を片腕に支えながら、汗ずくになって操っているさまを想うと、涼しさに四ッ橋を四つ渡って来る風も、もはやぴたりと止るような想いがする。

せめて夏の間だけでも住み馴れた大阪にいたいと、この人たちも思うだろうが、しかし毎年文楽座は夏枯れで、とても興行にはならず、やむなく巡業に出なければならぬのである。いうならば、恐らく日本最高の芸術であり、そして大阪人のみが真にこれを理解することの出来る、この郷土芸術がかく夏の追放に甘んじなければならぬのは、つまりは大阪人の文楽に対する冷淡さゆえではなかろうか。私はそう思う。東京では文楽が行けば、いつも満員だということだ。

かつて西鶴、近松をうみ、いまなお文楽をもっている大阪である。けっして謂うところの芸術不毛の地であろうはずがない。いや、大阪のもっている恵まれた伝統こそ、巨大な芸術をうむにふさわしいと、いえばいえるのである。たとえば、そのふとぶとしさ、鋭敏かつ逞しい感覚、創造性!

しかもその大阪が、われわれに残された唯一の芸術である文楽を、かくも冷淡に扱っているのは、なんとしたことか。やはり、大阪は芸術の育ちにくい土地なのであろうか。淋しい気がする。

たとえば、大阪にはたった一つの強力な文化雑誌もない。いま、地方文化ということが喧しくいわれていて、威勢のよいことではあるが、いくらわいわいいってみたところで、一つの文化雑誌もない状態で、なにをいってみたところではじまらぬ。論理の辻褄を合わせるだけでは、まるで金庫の鍵の番号を合わせるようなもので、金庫が空っぽでは、なんにもならぬではないか。

そこで、もしわれわれが、百の議論よりも一の実行だと、たとえば大阪における文化雑誌の発行をわれわれ自身の手で企てたとしたら、果して府や市の当局がこれを許可するだろうか。疑わしい。

そのような、‐いまはもうはっきりといおう、-芸術に無理解な土地に定住して、不便を忍びながら小説を書いているのは、しかしやはり、なんといっても大阪が好きで、心身ともに大阪を離れがたく思うからである。

何故大阪が好きなのか。大阪が離れがたいのか。つまりは、大阪は私の故郷であるからだ。そこで生れ、育った土地であるからだ。これ以外の強力な理由はない。

たとえば、大阪という土地は……などと改めて、いろいろ大阪の良さについていってみる。(また、随分それをやって来た)しかし、私が大阪の良さと思うのは、あるいは蓼食う虫も好きずき、あばたもえくぼであったかも知れぬ。大阪だけの良さと思っているつもりでも、あるいはよその土地にもあることかも知れない。生国魂神社の舞台から見下した大阪の町々の風景、中之島、渡辺橋附近の夕方の川岸の風景などあげてみたところで、京都には、東京には、もっと良い風景があるかも知れない。あるだろう。してみると、特にそれらを愛するのは、それが私の故郷の風景であるためではなかろうか。

それにまた、いくら大阪の善悪についてことごとく論じてみたところで、近松の浄瑠璃の文句にあるように「なにが善やらあくびやら」と、私はつい白々しい想いにとらわれてしまうのである。ここらが、私の大阪人であるゆえんだろうか。

しかし、それにも拘らず、たった一つ、声を大にして私が、いいたいのは、大阪弁の良さである。これだけはもう疑いもせぬ、一歩も譲らぬ大阪の良さである。しかも、その大阪弁を、ここ二、三年まえまでは、私は使おうとしなかった。使うのを恥じていた。想えばばかばかしいことだった。

むろん子供のころは、これよりほかに使いようのない、つまり、大阪弁を使っていた。いまよりももっと上手に、楽々と使っていた。ところが、中学校へはいり、だんだん生意気になって高等学校の試験準備に中之島の図書館へ通い出すころには、アクセントはどうにもならぬが、せめて語尾だけでもと、大阪訛から脱けだすことに、苦心した。丁度今から一昔、十年ばかり前だった。

当時、中之島図書館の横の方で、しきりに地下鉄の工事をやっており、ボーリングの音が耳をたたきわるように聞えて来て、勉強もなにも出来なかったことを覚えているが、しかし首尾よく京都の三高に入学できて、ここで五年(普通は三年)その間に変な学生言葉を覚え、あちこちで二年、東京で三年、その間東京弁を覚えることに随分阿呆らしい苦心をし、そして再び大阪へ帰ってみると、十年の間に大阪はすっかり変っていた。

地下鉄はナンバまで通じ、従って御堂筋が綺麗になっていた。ところが、私も変っていた。一調子外れた東京弁ぐらいは使えるようになっていて、二言目には、君、東京じゃね……。しかし、使いながら、つくづく考えてみると、どうもほかの人の使っている言葉、すなわち私の毛嫌いしていた大阪弁の方が、はるかによいように思われたのだ。ざまあ見ろ。

地下鉄が天王寺まで通ずるころには、私も再び大阪弁を使いだした。そして今日に及んでいる。もう一生変ることもあるまい。

語り来て、はっと思えば、私はまだ三十歳にもなっておらぬ。満で数えると二十七歳、生れもせぬ明治の大阪のことなど、知った顔で書くじゅんさいなところも、そこは大阪人だけにもっているが、しかし、実は、大阪の今昔はおろか、大阪のことなど語る資格はない。余り大阪を知らぬのである。

たとえば、心斎橋の七不思議の一つ、すなわち、黄昏どきになると、現在もなお梯子を担いだ人が橋の上に来て、ガス燈に灯を点じ、あたりを昔ながらの蒼白い光のなかへ、大阪の郷愁のなかへ沈めてしまう、という話も、じつは九州から大阪へ来ている人からのまた聞きだ。知らなかったのは、むろん私だけではあるまい。大阪の人でも知らない人が随分多いだろう。

また西鶴の墓が上本町四丁目の誓願寺にあることを知っている人は、この大阪に何人いるだろうか。いや、当の寺の人だって、幸田露伴博士が発見するまでは、墓碑のありかを知らなかったのだ。丁度、石浜純太郎先生の「富永仲集」が創元選書で出るまで、われわれがこの大阪のうんだ偉大な学者を知らなかったように。

しかしこの時局下に西鶴如き好色物作家などどうでもよいじゃないかと、人はいうだろう。私はそれに答えたい。そういう人は西鶴を読んだことのない人だ。読めばたとえば、世界平和実現という日本の壮図が達成されて、文学オリンピックというようなものが行われる暁、この大阪から、いや、東亜共栄圏から出すべき選手の三人のなかに、この西鶴ははいるべきだと必ず諒解するであろう。

東海道新幹線乗換

東海道新幹線乗換・出口ガイド 新大阪方面

東海道新幹線を降りてから迷わない。乗る前にチェック東海道新幹線乗換・出口ガイド。
各駅のJR、地下鉄、私鉄との号車も分かる乗換ベスト乗車位置に加え、ホームに設置のエレベーター位置、エスカレーター、階段、改札口位置、改札口と所要な出口の位置関係も同時に掲載。

東海道新幹線 新大阪方面(下り)

東京→品川→新横浜→小田原→熱海→三島→新富士→静岡→掛川→浜松→豊橋→三河安城→名古屋→岐阜羽島→米原→京都→新大阪 方面

東京 とうきょう 14、15、16、17、18、19番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線・小田急線・箱根登山鉄道・大雄山線 10号車

東口
ベルジュ 小田原ラスカ 小田原城
西口
北條早雲像
熱海 あたみ 6番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線・伊東線 5号車

出口
間欠泉 足湯 熱海駅前第一ビル
三島 みしま 5番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線・伊豆箱根鉄道 12号車

北口
静岡県立三島北高等学校 日本大学国際関係学部
南口
楽寿園
新富士 しんふじ 2番ホーム 新大阪方面

静岡 しずおか 6番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線・静岡鉄道 8号車

北口
松坂屋静岡店 丸井静岡店 静岡パルコ SHIZUOKA 109 新静岡センター パルシェ ホテルアソシア静岡
南口
ホテルセンチュリー静岡
掛川 かけがわ 5番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線・遠州鉄道 7号車

北口
アクトシティ浜松 サンクンプラザ 遠鉄百貨店 メイ・ワン 浜松名鉄ホテル
南口
浜松市国際交流センター
豊橋 とよはし 13番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線・遠州鉄道 7号車

北口
アクトシティ浜松 サンクンプラザ 遠鉄百貨店 メイ・ワン 浜松名鉄ホテル
南口
浜松市国際交流センター
豊橋 とよはし 13番ホーム 新大阪方面

乗換
JR東海道線 10号車

名古屋 なごや 16、17番ホーム 新大阪方面

乗換
JR線・地下鉄名古屋市営地下鉄 8号車、JR線・名鉄線・近鉄線・あおなみ線 12号車

桜通口
ロイヤルパークイン名古屋 JRセントラルタワーズ 松坂屋名古屋駅店 ホテルアソシア名古屋ターミナル 名古屋ルーセントタワー JR名古屋高島屋 東急ハンズ名古屋店 名古屋マリオットアソシアホテル ミッドランドスクエア ミッドランドスクエアシネマ ピカデリー1~6 ホテルキャッスルプラザ
広小路口
名鉄百貨店 名鉄グランドホテル モード学園スパイラルタワーズ
太閤通口
ビックカメラ名古屋店
岐阜羽島 ぎふはしま 2、3番ホーム 新大阪方面

乗換
名鉄羽島線 7号車

米原 まいばら 11番ホーム 新大阪方面

乗換
JR線・近江鉄道 9号車

京都 きょうと 13、14番ホーム 新大阪方面

乗換
JR線・近鉄線 7号車、京都市営地下鉄 8号車

烏丸中央口
京都タワー 京都センチュリーホテル 京都新阪急ホテル ホテルグランヴィア京都 ジェイアール京都伊勢丹
新幹線八条東口
ホテル京阪京都
新大阪 しんおおさか 20、21、22番ホーム 博多方面

 

文楽的文学観

織田作之助

「いい小説が再読三読に堪えるという事は、言い代えれば、これを理解しようとしてこれを別の形式に要約して了えない、要約する必要もないという事に他ならぬ。それは依然として、不可知な生き物として僕等に影響する、現代の小説は、いよいよこれと反対の傾向を辿っている。大多数の小説が解って了えば、それで万事がお終いである。若干の刺激をきっかけとする、皮相な人生の理解という読者の一消費を目当てにしか、作者の方でも、もう小説というものを書かぬ」

小林秀雄氏の言葉である。これは鏡花が死んだ月に書かれたものだが、無論今読んでも古くない。文学について言われた卓見というものは、いつまでも古くならないのを先決条件としている一例だ。

即ち、小林氏のこの言葉は、今もなお充分新しい、いや、今日ますます新しくなろうとしている。日日まことに新しくなろうというこの状勢は、当分続きそうである。もはや、明瞭と思うが、私は近頃の文学界に良い小説が地を払ったということに就て語ろうとしているのである。

最近文楽の吉田栄三と吉田文五郎が朝日文化賞を貰った。すると、人々は慌てて文楽に注目しだして、今月の文楽座はいやらしいばかりに満員である。ところが二三年前までは文楽座は火の消えたようなものだった。亡び行く古典芸術の落日の最後の明りのようにあえかに美しい寂莫たるものであった。

何故、文楽が流行しなかったか。文楽に思想がないというのが、若い人達の合言葉であった。なるほど、文楽で演っている浄瑠璃本の中にある思想なんて、知れたものである。古くさい。まず、思想が無いといってもよかろう、しかし、文楽そのものには、即ち、人形芝居というものには、厳然とした思想がある。この人形の思想というものを信じていなければ、栄三や文五郎が永年、いいかえれば六十年も、舞台で苦労する筈がない。花柳章太郎が栄三に自分の芝居を見て貰って批評を頼むと、栄三は「わがことが分らんでいて、他人様のことが言えたもんかいな」と言ったそうである。六十年苦労して、いまだに「わが事」がわからないという。思うに人形の思想というものは、こういうものなのだ。とにかく、文楽の中には思想というものはないかも知れないが、文楽の思想というものは、あるのだ。

文学の世界でも、事情は同じである。小説の思想というものと小説の中にある思想というものは別だ。小説家が信じている、信じようとしている、あるいはそれと闘っているものは、小説の思想であって、小説の中にある思想ではない。ところが小説の中にある思想でもって小説を要約しようということが行われている。読者も批評家も小説家も、それをやるのだ。

良い小説というものは小林氏も言う通り、別の形式を要約して了えない、要約する必要のないものなのだ。つまりは、良い小説の良い小説たる所以は、これを味う以外にはないのであって、小説家が使っている言葉、文章以外のものでもって言いつくせないのだ。むろん映画にも芝居にも表現できない。それでは、困るというので、理屈っぽい読者や、批評家や、小説の思想を信じ得ない小説家は、小説の中にある思想を帰納して、それでもってその小説を語りつくしたと思いたがるわけだ。

しかしいくら小説の中にある思想をひきだしても、それで小説を語り得ないのは、譬えてみれば、多角形の辺を無数に増して円にしようとする努力と同じである。

小説の思想というものはいうならば、小説という第二の自然、あるいは第二の人生の独自の世界を作ろうという思想である。だからいかなる思想もこの中に包含し得る。つまり円がいかなる多角形をも包含し得るというのと同じだが、多角形は円ではない。

ところが最近の文学界を見ると極めてややこしい形をした多角形的小説が横行している。小説の中にある思想だけで立っている小説だ。従って簡単に要約し易く、再読、三読に堪えない。そしてそういうものが、良い小説とされかけている。まずもって、なげかわしいことである。多角形、即ち小説の中にある思想が、しっかりしたものであるならばともかく、それが極めて浅薄なのが多いというのでは、ますますお話にならない。

文楽のほめ言葉

「文楽人形は生身の真実であり人形師達は姿なき運命の手である。彼らは石のように感情を見せない顔を舞台にさらしながら人形に生命と血と歓喜と苦悩を吹き込んでいた。文楽見物は西洋人にとっても不思議に心を奪われる一夜の経験である。 クライブ・バーンズ ニューヨーク・タイムス」

「10年の思い出」文楽協会 昭和48年

“The art of Bunraku is mixture of puppetry, acting and song. Interestingly, the facial movements of these wonderfully complex puppets are comparatively slight. The emotion and power are conveyed largely by their movements and gestures. After watching these puppets for a time they become completely real. Any fear that they might be dolls is suspended, even the inscrutable-puppet-masters, as solicitous of their charges as patient male nurses, far from destroying the illusion actually seem to add to it, seeming charmingly domestic in their care and yet Weaving around the actors like giant and invisible black angels or forces of destiny.

As in the Kabuki dance drama, Bunraku is seen primarily as a theater of heroes, where a man’s honor is his philosophy of life, the link between himself and God or the immeasurable universe.

Such ideas, like those of a man’s degree, are not so far removed from our own Renaissance theater. What is strange is the temperamental application of them, as seen through Japanese eyes.” By CLIVE BARNES

“Theater : Bunraku Puppets Appear at City Center” By CLIVE BARNES The New York Times March 16,1966

誰にでも経験があることだと思うが、思春期、「聴けば分かる。」なんていう言葉とともに自分の気に入った音楽CDを友人に貸したことはなかっただろうか。貸した次の日には、スグ感想が聞きたくてちょっとしつこく「どうだった?」と聞いたことはなかっただろうか。同じパターンは、マンガ、雑誌、小説、テレビ番組、ラジオ、ビデオ、時には自分の乗っているバイクにすらおよんだ。相手の反応は、様々だった。

なぜこんなことを書くのかといえば、アマゾンの電子ブックリーダー「キンドル」を読んでいる人を見て「あの人は自分が読んで気に入ったもの(本?)を人に薦めるときにどうするのか?」と疑問に思ったからだ。実は、同じことはipodなどのmp3プレイヤーで聞いている音楽についても言える。昔のようにCDやカセットを人に貸すように自分のパソコンに入ってるiTunesの曲を友人に貸す方法を私は知らない。パソコンごと貸すのは論外としても、ipodごと貸すのもどうかと思う。だからと言って「買え」とか「買ってみれば」というのも、経験上タダでモノを貸しても相手が気に入らないコトは多いだけに気がすすまない。
別に高度なネットワーク社会が個人と個人を分断しているというパラドックスの話をするつもりはない。前置きが長くなったが、舞台や映画は昔から試しに人に貸すことは出来なかった。大阪で文楽(ぶんらく)を見るのは、私にとって大きな楽しみだが人を誘っても大抵相手の反応は薄い。文楽に誘っても結局NGKの吉本新喜劇に落ち着くことも多い。

どうすればうまく文楽に誘うことが出来るだろうか?

何回か文楽を見たことがある人を誘う場合

文楽への拒否反応の中には稀に「何回か見たことがあるからもういい」といったものも含まれる(歌舞伎、能などの伝統芸能では多い反応だ)。その“何回か”とはどんなものだったかを聞くと「よくは覚えていないがつまらなかった」といった答えが多くの場合返ってくる。つまらなく退屈なら覚えていないのは普通だ。つまらないと感じた文楽の筋をスラスラと語る人は普通いない。

そんな時、「どこの席で見たのか?」を聞いてみるのがおすすめだ。

そもそも、文楽は聞くものという意見の人も多いが(例えば、安藤鶴夫など)、大夫によって語られる義太夫節(ぎだゆうぶし)が独特の節回しで現代語ではない以上、現代では見るという要素の方が強まっていると感じる。後の方の席から豆粒のような文楽人形を見ても退屈に感じるのは当たり前に思える。もしも、後の方で見たとの答えだった、今度は前の方で見ようと誘ってみたらどうだろうか。

ところで、大阪の国立文楽劇場には、一幕見の席の用意があり、私自身は気に入っているが人にはすすめない。一幕見の席は、劇場後方の一番端っこで席から見える人形のサイズは小さい。名古屋にある御園座の歌舞伎の一幕見は少し変わっていて、幕ごとでなく、途中の幕まで終わって空席があれば、空席を幕見席として売り出す。そのため、一等席の位置でも幕見することができる。文楽こそこのシステムを取り入れるとファンのすそ野を広げ、より満足度を上げることが出来ると思うがどうだろうか。

はじめて文楽を見る人を誘う場合

実は、文楽を初めて見る人を誘うのはちょっと難しい。「文楽は、2003年ユニセフより『世界無形遺産』として宣言を受けた」と言って誘うのはどうだろう?「国宝芸術」から「世界無形遺産」にタイトルが変わっただけで本当に大切な中身は置いてきぼりと感じる。こんな言葉で人を誘うのは、あまりにも上滑りで自分に定見がないと告げているようなものだと言ったら言い過ぎだろうか。
文楽に人を誘うのにどんな文句がいいのか、「文楽のほめ言葉」を探してみようと考えた。文楽を初めて見る人に話したら、相手がぜひ行きたいと感じるような「文楽のほめ言葉」。自分自身もその文章を読んだだけで「ああ、文楽を見たい。」と思えるようなほめ言葉を探してみようと考えた。

いろいろ探してみたが、いわゆる文楽好き、文楽ファン、文楽通の日本の作家であっても、良い「文楽のほめ言葉」を書いている人が以外に少ないことに気が付いた。あまりに手放しに誉めるのは、インテリとしての沽券に係わるのかストレートなほめ言葉を書く作家は少ない。多くのパターンとして、文楽応援団を自任しながら陳腐な表現や、とにかく文楽を見ましょう的な内容に終始している。内容は度外視で「日本の古典、文化を守り育もう」その一助になればという芸術文化防衛組織の一員みたいな気分で文楽について語っている。またこういった人たちの文章には、自分の眼力に自信が無いのがありありと見える。古典芸能を愛する奥ゆかしい私というミーハーな感情以外、文楽を見ることにより生じるであろう感情“喜び”を感じることができない。織田作之助が書いた

私を邪険に扱った案内嬢も、いつか文五郎のサワリにひきこまれていたのか、「阿波十」の幕がおりると、「文五郎はんのサワリはいつ見てもよろしおまんな」とどこかの婆さんをつかまえて、言っていた。婆さんは、「ああ、もう古靱はんの阿波十きかしてもろたら、何もいりまへん。おおきにごっとはんでした」と御馳走になったような挨拶をしていた(「文楽の味」)。

といった“喜び”が感じられない。感情が無い上、眼力に自信がないために、評価という知性も欠如している。内容はともかく自分が、いろいろなところに文楽について書くことで、不人気な古典芸能のパトロン気分。そんなものが多い。書いている本人も本当にイイものかどうかに自信がないだけに「ほめ言葉」にもなっていない。

今回、紹介する「文楽のほめ言葉」は6篇、日本の作家の文章が2篇、外国人によるものが4篇。前述「文楽の味」で織田作之助は、“ハーゲマンやクローデル等異人の文楽論の翻訳など載せているのは、何か余計なおせっかいのように思われる。異人に文楽の見方を教えられなくとも、黙って虚心坦懐に見物して居れば、すくなくとも私たち大阪人には、昆布の味のように噛みしめれば、しみじみその良さが判る筈である。”と書いたが、大阪人も含めすでに私たちは、文楽、そして文楽を構成するものに関して外国人ほどの感受性しか持ち合わせていない。織田作之助の時代と異なり、素人義太夫大会などというものを目にする機会もない。そこで、ハーゲマンとクローデルの文楽論の一部(原語 原文は全文を別ページにリンク)2篇を加えた。特に、ハーゲマンの文楽に対する激賞は一読に値する。

結果的に、日本の作家の文章は2篇にとどまった。

この2篇には「亡くなった名人の○○は、文楽のことを何も知らない私が見ても…」といった事を書く作家の文章は含まれていない。こういった人は、おめでたい競馬ファンと一緒で自分のあてずっぽうが当たった時だけ覚えているもので、ハズレた時のことはきれいさっぱり忘れてしまう。第一、おぼつかない自分の感覚を、その道の権威の評価で答え合わせをしているだけで読むべき内容は含まれていない。ある意味、内容は、権威筋のオウム返し、良くても“やまびこ”止まりといったところだ。

また、いわゆる古典芸能評論家の文章は含まれていない。古典芸能評論家といいながらもその実、根気と時間さえあれば誰でも書けるような名作の「あらすじ」と「みどころ」を満載したガイドブックを書いているような古典芸能評論家には、生きた言葉で“ほめ言葉”を書くことはできない。

評論家自身、中途半端なコレクターで、劇場で買ってきたパンフレットを後生大事に書斎の本棚に収めるような感覚で観劇をしている。そんなガイドブックを読んでも中途半端な評論家のさらに10分の1のミニチュアになるだけだ。彼らにとっての観劇は本棚に収めるパンフレットと同じ○○を見たという、観劇歴の積み立て貯金に過ぎない。観ることより観たということが大事になってしまっている。

知識とは本棚に収めるものでも積み上げていくものでもない。知識とは燃やす炎だ。パンフレットを本棚に収めていくような文楽論ではなく、書斎の火鉢や暖炉にパンフレットを投げ込み燃え上がらすような文楽論が読みたい。見つけられないのだったら自分で書けばイイと思ったが、自分が劇場でパンフレットを買わないことに、今、気が付いた。

文楽のほめ言葉

「僕が文楽を見るときは、いつも天下一品の鑑賞をしたものである。もちろん人形のこまやかな所作やフィーリングを享楽することは忘れないが、正直いうと、そんなものよりもっとモッサリした黒頭巾黒装束の人間<人形使い>の汗みどろの立ちふるまいに、ものすごく興味をもったし感動もしたのである。人形の動きだけなら、その操りが神技であればあるほど、人間疎外の技術的結果だけがさびしく映像に残る。まったくイケズな鑑賞のようだが、たくまないこんな見方がほんとうに人間的に正直で、大阪的であるんだ、と僕ひとりは考えているのである。 今竹七郎」

随筆集「大阪讃歌」ロイヤルホテル 1973

「兎も角も我々は日本の人形芝居を単なる人形芝居と見ないで最も高き表現藝術と見なければならない。日本の人形は最も特殊な、然も同時に、最も純粋な最も正直な芝居を見せる点に於いて、今日世界にその類を見ないものである。この人形が具体するものは最も深い人間的で藝術的な価値である。それに用いられる手段は最も簡単な手段である。自動人形(アウトマート)が人間を表現する。木偶が人を震撼させる。人形が偉大な国民的演劇に生命を吹き込む。ここに表れるものは演劇藝術の最後にして最高のものである。是こそ、演劇のすべてであり演技のすべてあり芸術のすべてである。 カール・ハーゲマン」

『ハーゲマンの見た文楽』小宮豊隆 「文楽」筑摩書房 昭和17年

“ Jedenfalls haben wir es hier im japanischen Puppentheater nicht zu tun. Die japanischen Puppen liefern das aparteste und gleichzeitig echteste und aufrichtigste Theater, das heute in der Welt betrieben wird. Was sie gestalten, sind vertiefteste menschlich-künstlerische Werte. Die Mittel, mit denen es geschieht, die denkbar einfachsten. Automaten stellen Menschen dar. Holzpuppen bringen Erschütterungen hervor. Marionetten lassen große Nationaldramen lebendig werden. Was hier vorgeht, ist Theaterspielkunst letzten und höchsten Grades. Ganz Theater, ganz Spiel und ganz Kunst.“ von Carl Hagemann

“DIE PUPPEN VON OSAKA” Spiele der Volker : Eindruckeund Studien auf einer Weltfahrt nach Afrika und Ostasien(“大阪の人形” 諸民族の演技(民族の演劇) シュピーレ・デア・フェルカー) von Carl Hagemann

「人形芝居といふものに私が興味を持ったのは、子供の時に始めて「アラディンと魔法のランプ」を見て以来のことである。そういう人形芝居にはどこか薄気味悪い所と、それから何かこの上もなく愛らしいものがあって私を惹き付けたのを、私はもう少し年を取ると、凡て私がまだ子供だったせいなのだといふ風に解釈し、その二つが頭の中で切り離せないままに、自分が子供ではなくなったのにやはりこの木で出来た人形の作り出すお伽噺の世界に執着があるのを恥しく思はないではいられなかった。それからずっとたって、日本の文学を研究するようになってから、私は少くとも世界の一国では人形芝居が大人の為の娯楽としてのみならず、見事な劇芸術の形を取って発達したことを漸く知った。私は文楽が日本の文学史と演劇史の両方で極めて重要な位置を占めていて、世界の他の国々で人形芝居が意味する低級な娯楽に属するものではないことを理解し、又、日本で最大の悲劇作者である近松門左衛門が役者の芝居ではなく人形芝居の為に書いたことも知った(一)。そして後に、文楽を見る機会を得て、今日の文楽の観衆も昔のと同様に、人形遣いの人形の動かし方を面白がって眺める為でなしに、本式の演劇を楽しみに来ていることを確めることが出来た。そこでは、西欧で人形の道化振りに対して起る種類の笑い声を聞くことよりも、例えば、婆さんが何か悲しい場面に来て涙を拭っているのが目に留ることの方が多いのである。 ドナルド・キーン」

「文楽」ドナルド・キーン 講談社 昭和41年

“Puppet and marionette shows have intrigued me since I was a child and saw my first Aladdin and his Wonderful Lamp. Something uncanny, and at the same time enormously endearing, gave these shows an allure which in later years I was mistakenly to attribute to the guilelessness of extreme youth. The association of puppet shows with the schoolroom proved so strong, indeed, that once I considered myself beyond the stage of childish pleasures I felt rather ashamed of my lingering fondness for the make-believe world of little wooden people. Only much later was I to discover, after beginning the study of Japanese, that in one country at least the puppet theatre had developed not only as an adult entertainment, but as the vehicle of a magnificent dramatic art. I came to realize that Bunraku (the common name for the Japanese puppet theatre) occupies a most important place in Japanese literary and theatrical history alike, and by no means belongs to the frivolous class of entertainments associated with puppets and marionettes in other parts of the world. I learned too that Japan’s greatest tragic dramatist, Chikamatsu Monzaemon, wrote not for actors but for the Bunraku puppets,(1) and when I later had the chance to attend the Bunraku Theatre, I found that the audience today as in the past is there to enjoy a true dramatic performance rather than an amusing display of the dexterity of the operators. I noted how much. more frequently one saw an old lady brush away the tears induced by some pathetic scene than one heard the sounds of laughter we migfht expect in the West at Punch and Judy shows.” By DONALD KEENE

[Bunraku The Art of the Japanese Puppet Theatre] DONALD KEENE Kodansha International

「 その人形はいわばそれ自身として、ひとつの独立の生命を持つ仮面である。仮面と言っても単に顔だけではなく、手足もついた全身の人形である。それは自由自在に動作でき、我々の手の裡で小柄ながら完全に人形の形を備え、身振りによって我々の注意を惹きつける。

そして生身の役者が自分の体重と骨の折れる動作に縛られているのと反対に、人形は足を地面につけず、あらゆる方向に同じような軽快さで動き回り、あたかも白紙に描いたデッサンのように、重量のない世界を漂っている。
人形の生命はその中心にあり、まわりに星型に突出した頭と四肢とはたんにその表情をつくる要素であるにすぎない。いわば四囲の接触から隔絶した光輝燦爛たる星であり、しかもその星は我々に話しかける。 ポール・クローデル」

『文楽座について』ポォル・クロォデル 中村光夫訳 「文楽」筑摩書房 昭和17年

“La marionnette c’est le masque intégral et animé, non plus le visage seulement, mais les membres et tout le corps. Une poupée autonome, un homme diminutif entre nos mains, un centre à gestes. La marionnette n’est pas comme l’acteur humain prisonniére du poids et de l’effort, elle ne tient pas au sol, elle manœuvre avec une égale facilité dans toutes les dimensions, elle flotte dans un élément impondérable comme un dessin dans le blanc, c’est par le centre qu’elle vit, et les quatre membres avec la tête, en étoile autour d’elle, ne sont que ses éléments d’expression, c’est une étoile parlante et rayonnante, interdite à tout contact. ” Paul Claudel

“BOUNRAKOU” L’oiseau noir dans le soleil levant(朝日の中の黒い鳥) Paul Claudel

文楽の三位一体

[三位一体] 人形浄瑠璃、文楽において、『大夫』、『三味線』、『人形』の三つの要素の芸が高度に組み合わさった時のほめ言葉。

「 三味線弾きの名を忘れたが、おそらく、六代目・友次郎ではなかったかと思われる。あるとき、明治座の、<文楽>の出開帳のとき、三代目・津太夫の日向島で、栄三が景浦をつかった。娘が、自分を助けようとして、廓に、身を売るという置き手紙を読んだ景浦が、それを知った瞬間、大きく、ころげたのを置きあがって、はるか沖あいの、娘を乗せた船に向かって、その船を戻せ、と、両手をひろげて、絶叫する一節である。
このとき、津太夫は、ぽんと見台を叩いて、膝の関節から上を、乗り出して、のびあがり、一方、栄三のつかう景清は、盲目の、まっかな目を、ぐわッとむいて、両手を虚空にひろげた。その太夫と人形の呼吸(いき)と、そして、三味線の三つが、毛ほどのすきのない、最高潮の舞台をつくった。
わたしは、まだ、詰襟の服を着ていた学生の時分で、一階の、舞台に向かって左側の桟敷の、すぐ、その下のイスにいたが、あまりの迫力に思わず、イスの上で、ぴょんと、ひとつ、からだがはずんで、とびあがった。その、まったく、すばらしい瞬間であった。わたしより、ふたつ、三つ、うしろの桟敷から、なんとも、すばらしく、イキのつんだ拍手が起こった。あまりに、舞台の、太夫、三味線、人形の芸がひとつになって、がっちり、三位一体となり、イキがつんでいたために、そのとき、ほとんど、拍手することを忘れた、あるいは、拍手をしようと思っても、その迫真力にけおされて、とてもできない、というような状態だった、と、いったほうがいいだろう。
わたしは、その手の叩きかた、イキのつんだ、ほんとうに、そのときの、拍手にふさわしい拍手にもびっくりした。そして、振りかえったら、その拍手の主は、歌舞伎俳優の、初代・中村吉衛門であった。 「文楽 日本の伝統」安藤鶴夫」