文楽的文学観

織田作之助

「いい小説が再読三読に堪えるという事は、言い代えれば、これを理解しようとしてこれを別の形式に要約して了えない、要約する必要もないという事に他ならぬ。それは依然として、不可知な生き物として僕等に影響する、現代の小説は、いよいよこれと反対の傾向を辿っている。大多数の小説が解って了えば、それで万事がお終いである。若干の刺激をきっかけとする、皮相な人生の理解という読者の一消費を目当てにしか、作者の方でも、もう小説というものを書かぬ」

小林秀雄氏の言葉である。これは鏡花が死んだ月に書かれたものだが、無論今読んでも古くない。文学について言われた卓見というものは、いつまでも古くならないのを先決条件としている一例だ。

即ち、小林氏のこの言葉は、今もなお充分新しい、いや、今日ますます新しくなろうとしている。日日まことに新しくなろうというこの状勢は、当分続きそうである。もはや、明瞭と思うが、私は近頃の文学界に良い小説が地を払ったということに就て語ろうとしているのである。

最近文楽の吉田栄三と吉田文五郎が朝日文化賞を貰った。すると、人々は慌てて文楽に注目しだして、今月の文楽座はいやらしいばかりに満員である。ところが二三年前までは文楽座は火の消えたようなものだった。亡び行く古典芸術の落日の最後の明りのようにあえかに美しい寂莫たるものであった。

何故、文楽が流行しなかったか。文楽に思想がないというのが、若い人達の合言葉であった。なるほど、文楽で演っている浄瑠璃本の中にある思想なんて、知れたものである。古くさい。まず、思想が無いといってもよかろう、しかし、文楽そのものには、即ち、人形芝居というものには、厳然とした思想がある。この人形の思想というものを信じていなければ、栄三や文五郎が永年、いいかえれば六十年も、舞台で苦労する筈がない。花柳章太郎が栄三に自分の芝居を見て貰って批評を頼むと、栄三は「わがことが分らんでいて、他人様のことが言えたもんかいな」と言ったそうである。六十年苦労して、いまだに「わが事」がわからないという。思うに人形の思想というものは、こういうものなのだ。とにかく、文楽の中には思想というものはないかも知れないが、文楽の思想というものは、あるのだ。

文学の世界でも、事情は同じである。小説の思想というものと小説の中にある思想というものは別だ。小説家が信じている、信じようとしている、あるいはそれと闘っているものは、小説の思想であって、小説の中にある思想ではない。ところが小説の中にある思想でもって小説を要約しようということが行われている。読者も批評家も小説家も、それをやるのだ。

良い小説というものは小林氏も言う通り、別の形式を要約して了えない、要約する必要のないものなのだ。つまりは、良い小説の良い小説たる所以は、これを味う以外にはないのであって、小説家が使っている言葉、文章以外のものでもって言いつくせないのだ。むろん映画にも芝居にも表現できない。それでは、困るというので、理屈っぽい読者や、批評家や、小説の思想を信じ得ない小説家は、小説の中にある思想を帰納して、それでもってその小説を語りつくしたと思いたがるわけだ。

しかしいくら小説の中にある思想をひきだしても、それで小説を語り得ないのは、譬えてみれば、多角形の辺を無数に増して円にしようとする努力と同じである。

小説の思想というものはいうならば、小説という第二の自然、あるいは第二の人生の独自の世界を作ろうという思想である。だからいかなる思想もこの中に包含し得る。つまり円がいかなる多角形をも包含し得るというのと同じだが、多角形は円ではない。

ところが最近の文学界を見ると極めてややこしい形をした多角形的小説が横行している。小説の中にある思想だけで立っている小説だ。従って簡単に要約し易く、再読、三読に堪えない。そしてそういうものが、良い小説とされかけている。まずもって、なげかわしいことである。多角形、即ち小説の中にある思想が、しっかりしたものであるならばともかく、それが極めて浅薄なのが多いというのでは、ますますお話にならない。