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聴雨

織田作之助

 午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。襟首が急に寒い。雨戸を閉めに立つと、池の面がやや鳥肌立って、冬の雨であった。火鉢に火をいれさせて、左の手をその上にかざし、右の方は懐手のまま、すこし反り身になっていると、
 「火鉢にあたるような暢気な対局やおまへん」という詞をふと私は想い出し、にわかに坂田三吉のことがなつかしくなって来た。
 昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行われた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であった。坂田は公認段位は七段ではあったけれど、名人と自称していた。
 全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらいの実力もあり、成績も挙げていたのである故、まず如何ように天下無敵を豪語しても構わないようなものの、けれど現に将棋家元の大橋宗家から名人位を授けられている関根という歴とした名人がありながら、もうひとり横合いから名人を名乗る者が出るというのは、まことに不都合な話である。おまけに当の坂田に某新聞社という背景があってみれば、ますます問題は簡単で済まない。当然坂田の名人自称問題は紛糾をきわめて、その挙句坂田は東京方棋士と絶縁し、やがて関東、関西を問わず、一切の対局から遠ざかってしまった。人にも会おうとしなかった。
 彼の棋風は「坂田将棋」という名称を生んだくらいの個性の強い、横紙破りのものであった。それを、ひとびとは遂に見ることが出来なくなった。かつて大崎八段と対局した時、いきなり角頭の歩を突くという奇想天外の手を指したことがある。果し合いの最中に草鞋の紐を結ぶような手である。負けるを承知にしても、なんと不逞々々しい男かと呆れるくらいの、大胆不敵な乱暴さであった。棋界は殆んど驚倒した。一事が万事、坂田の対局には大なり小なりこのような大向うを捻らせる奇手が現われた。その彼が急に永い沈黙を守ってしまったのである。功成り遂げてからというならまだしも、坂田将棋の真価を発揮するのはこれからという時であった。大衆はさびしがった。
 けれど、坂田の沈黙によって、棋界がさびれた訳ではない。木村・金子たち新進が台頭し、花田が寄せの花田の名にふさわしいあっと息を呑むような見事な終盤を見せだした。定跡の研究が進み、花田・金子たちは近代将棋という新しい将棋の型をほぼ完成した。そうして、棋界が漸く賑わったところへ、関根名人が名人位引退を宣言した。名人一代の制度が廃止されて、名人位獲得のリーグ戦が全八段によって開始された。大阪からは木見八段が参加した。神田八段も中途から加わった。が、ただひとり坂田は沈黙している。坂田の実力はやがて棋界の謎となってしまった。隆盛期の棋界に、そこだけがぽつんとあいた穴のような感じであった。
 この穴を埋めることは、棋界に残された唯一の、と言わないまでも、かなり興味深い大きな問題である。自然大新聞社は殆んど一ツ残らず、坂田の対局を復活させようと、さまざまに交渉した。新聞社同志の虚々実々の駈引きは勿論である。けれど、坂田と東京方棋士乃至将棋大成会との間にわだかまる感情問題、面目問題はかなりに深刻である。大成会内部の意見を纏めるのさえ、容易ではなかった。おまけに肝腎の坂田自身がお話にならぬ難物であった。
 たいていの新聞社はこの坂田の口説き落としだけで参ってしまったのだ。
 「銀が泣いている」という人である。−ああ、悪い銀を打ちました、進むに進めず、引くに引かれず、ああ、ほんまにえらい所へ打たれてしもたと銀が泣いている。銀が坂田の心になって泣いているというのだ。坂田にとっては、駒の一つ一つが自分の心であった。そうして、将棋盤のほかには心の場所がないのだ。盤が人生のすべてであった。
 将棋のほかには何物もなく、何物も考えられない人であった。無学で、新聞も読めない、交際も出来ない。それ故、世間並の常識で向っても、駄目であった。対局の交渉を受けて、
「そんならひとつ盤に相談しときまひょ」という詞は伊達ではない。それを聴いては、もうどんな道理を持って行っても空しかった。交渉に行った記者はかんかんになって引き下った。
 名人気質などという形容では生ぬるい。将棋のほかには常識も理論もない人、−というだけでも相当難物だが、しかもその将棋たるや、第一手に角頭の歩をつくという常識外れの、理論を無視したところが身上の人である。あれやこれやで、十六年間あらゆる新聞社が彼を引きだそうとして失敗したのも、無理はなかった。それを、読売新聞社が十箇年間、春秋二回ずつ根気よく攻め続けて、到頭口説き落したのである。
 十六年振りの対局というだけでも、はや催し物としての価値は十分である。おまけに相手は当代の花形棋士、木村・花田両八段である。この二人は現に続行中の名人位獲得戦で第一・二位の成績をおさめて名人位は十中八九この二人の間で争われるだろうという情勢であった。もし、この二人が坂田に敗れるとすれば、折角争い獲った名人位も有名無実なものとなってしまうだろう。つまりは、坂田対両八段の対局は名人位の鼎の軽重を問うものであった。花田・木村としては負けるに負けられぬところであった。一方、坂田にしても、十六年間の沈黙を破って、いわゆる坂田将棋の真価をはじめて世に問う対局である。東京方への意地もあろう。一生一代の棋戦と言っても、あながちに主催新聞社の宣伝ばかりではなかった。
 「十六年間、一切の対局から遠ざかってましたけど、その間一日として研究をせん日はおまへなんだ。ま、坂田の将棋を見とくなはれ」と戦前豪語した手前でも負けられぬ将棋である。六十八歳の老人とは思えぬこの強い詞は、無論勝つ自信をほのめかした詞であろう。が、ひとつにはそれは、木村・花田を選手とする近代将棋に対して、坂田がいかに奇想天外の将棋を見せるか、見とくなはれという意味も含んでいた。大衆はこの詞に捻った。
 ともかく、昭和の大棋戦であった。持時間からして各自三十時間ずつ、七日間で指し終るという物々しさである。名人位獲得戦でさえも、持時間は十三時間ずつ、二日で勝負をつけている。対局場も一番勝負二局のうち、最初の一局の対木村戦は、とくに京都南禅寺の書院がえらばれて、戦前下見をした坂田が、
 「勿体ないこっちゃ、勿体ないこっちゃ、これも将棋を指すおかげだす」と言ったというくらい、総檜木作りの木の香も新しい立派な場所であった。
 けれども、私も京都に永らく居たゆえ知っているが、対局を開始した二月五日前後の京都の底冷えというものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まったかと思われるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なお坂田は六十八歳の老齢である。世話人が暖房に細心の気を使ったのはいうまでも無かろう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局というからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病ということもある。対局場の寒さにうっかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが焚かれ、なお左右の両側には、火をかんかんおこした火鉢が一個ずつ用意された。
 それを、六十八歳の坂田は、
「火鉢にあたるような暢気な対局やおまへん」と言って、しりぞけたのである。このことを私は想い出したのだ。何故とくに想いだしたのだろうか。
 木村には附添いはなかったが、坂田には玉江という令嬢が介添役として大阪から同行して来ていた。妻に死なれたあとずっとやもめ暮しの父の身の廻りのことを、一切やって来たというひとである。対局中の七日間、両棋士はずっと南禅寺に缶詰めという約束であった。ところが、坂田は老齢の上に、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさえ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなわぬのだ。そこで、対局中玉江という令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになったのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、嫁ぎもせず自分の面倒を見て来てくれた娘に、自分の将棋を見せるためでもあった。
「お前もお父つぁんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは辛うてどんならんやろけど、言や言うもんの、わいにもわいの考えがあって、来て貰たんやぜ。わいはお前らの父親や言うもんの、何ひとつ残してやる財産いうもんがない。せめて、お父つぁんがどれだけ苦労して一生懸命に将棋指してるか、そこをよう見といてや。これがわいのたった一つの遺産やさかい……」
 一手六時間というまるで乾いた雑巾から血を絞り出すような、父の苦しい長考を見て、到頭対局場に居たたまれず、隣りの部屋へ逃げ出した挙句、病気になってしまったという玉江に、坂田はこんな風に言った。けれど、本当は坂田は死んだ細君にその将棋を見せてやりたかったのではなかろうか。細君の代りにせめて娘にでもと思ったのではなかろうか。
 それと言うのも、昔は現在と違って、棋士の生活は恵まれていない。ことに修業中は随分坂田は妻子に苦労を掛けた。明治三年堺市外舳松村の百姓の長男として生れ、十三歳より将棋に志し、明治三十九年には関根八段より五段を許されて漸く一人前の棋士になったが、それまでの永い歳月、いや、その頃でさえ、坂田には食うや呑まずの暮しが続いていたのである。自分は将棋さえ指して居れば、食う物がのうても、ま、極楽やけれど、細君や子供たちはそうはいかず、しょっちゅう泣き言を聞かされた。その都度に、
「わいは将棋やめてしもたら、生きてる甲斐がない。将棋さすのんがそのくらい気に入らなんだら、出て行ったらええやろ。どうせ困るちゅうことは初めから判ってるこっちゃ。そやから、子供が一人の時、今のうちに出て行けと、あれほど言うたやないか」と言って叱りつけていたが、ある夜帰って見ると、誰もいない。家の中ががらんと洞のように、しーんとして真暗だ。おかしいなと思い、お櫃の蓋を取って見ると、中は空っぽだった。鍋の中を覗くと、水ばかりじゃぶじゃぶしている。急にはっといやな予感がした。暗がりの中で腑抜けたようになってぼんやり坐っていると、それからどのくらい時が経ったろうか、母子四人が乞食のような恰好でしょんぼり帰って来た。ああ、助かったと、ほっとして、
「どこイ行って来たんや、こんな遅まで……」と訊くと、
「死に場所探しに行て来ましてん。……」
 高利貸には責めたてられるし、食う物はなし、亭主は相変らず将棋を指しに出歩いて、銭をこしらえようとはしないし、いっそ死んだ方がましやと思い、家を出てうろうろ死に場所を探していると、背中におぶっていた男の子が、お父っちゃん、お父っちゃんと父親を慕うて泣いたので、死に切れずに戻って来たと言う。
「………」涙がこぼれて、ああ、有難いこっちゃ、血なりゃこそこんなむごい父親でも、お父っちゃんと呼んで想い出してくれたのかと、また涙がこぼれて、よっぽど将棋をやめようと思ったが、けれど坂田は出来なんだ。そんな亭主を持ち、細君は死ぬまで将棋を呪うて来たが、けれど十年前いよいよ息を引き取るという時「あんたは将棋がいのちやさかい、まかり間違うても阿呆な将棋は指しなはんなや」と言った。この詞にはげまされて十年、そしていま将棋指しとしての一生を賭けた将棋を指そうとして、坂田のたった一つの心残りは、わいもこんな将棋指しになったぜと細君に言ってきかせられないことではなかろうか。細君にその将棋を見て貰えないことではなかろうか。
 して見れば、対木村の一戦は坂田にとっては棋士としての面目ばかりでなく、永年の妻子の苦労を懸けた将棋である。火鉢になぞ当っていられないのは、当然であったろう。−そう思えば、坂田のあの詞もにわかに重みが加わって、悲壮である。ところが対局がはじまって三日目には、もう彼はだらしなく火鉢をかかえこんでいる、これはなんとしたことであろうか。
 観戦記者や相手の木村八段や令嬢が、老齢の坂田の身を案じて、無理に薦めたのか、それとも、強いことを言っていたけれど、さすがに底冷える寒さにたまりかねて、自分から火鉢がほしいと言いだしたのであろうか。「火鉢にあたるような暢気な対局やおまへん」と自分から強く言いだした詞を、うっかり忘れてしまうくらい耄碌していたのか。
 あるいはまた、火鉢にもあたるまいというのは、かえって勝負にこだわり過ぎているのではないかと、思い直したのかも知れない。かねがね坂田はよく「栓ぬき瓢箪」のような気持で指さんとあかんと言っている。
 ある時、上京するために大阪駅のプラットホームまで来ると、雑踏のなかに一人の妙な男が立っていた。乗り降りの客が忙しく動いている中に、ひとり懐手をしてぽかんと突っ立っているのだ。汽笛が鳴り、汽車が動きだしても、素知らぬ顔で、気抜けしたようにぱくんと口をあけて、栓ぬき瓢箪みたいな恰好で空を見上げたまま、プラットホームにひとり残されている。なんや、けったいな奴じゃな、あいつ阿呆かいなとその時は思ったが、あとで自分の将棋が悪くなり、気持が焦りだすと、不思議にその男の姿を想い出すのだ。ぽかんと栓ぬき瓢箪のような恰好で突っ立っている姿、丁度ゴム鞠の空気を抜いたふわりとした気持、何物にもとらわれぬ、何物にもさからわぬ態度、これを想い出すのである。余り眼前の勝負に焦りすぎてかんかんになり、余裕を失ってしもうては到底よい将棋は指せないぞ、栓ぬき瓢箪の気持で指さなあかんと、思うと不思議に気持が落着く-というのである。
 つまりは、火鉢のことにこだわった時は、丁度、眼前の勝負にかんかんになり過ぎて、気持が焦りに浮き立っていた。そこに気がついて、これではいけないと、火鉢を要求したのではなかろうか。
 けれど、こんな臆測はすべて私の思い過しだろう。観戦記録を見ると、対局開始の二月五日という日は、下見をした前日と打ってかわって、京にめずらしいポカポカと暖かい日であったという。それを読んで、私は簡単にすかされてしまった。その人の弱みにつけこんで言えば、暖かいから火鉢を敬遠したまでのこと、それを「火鉢にあたるような……」云々と悲壮めかすのは芝居が過ぎる。あるいは、坂田自身が自分の気持に欺かれていたのだろうか。けれども私はこういうところに、かえって坂田の好ましさを感ずる。寒くなったら、あわてて前に言った詞を取り消して火鉢をほしがったのだろうと断定を下し、しかも私はそこにこの人の正直さをじかに感じようと思うのである。
 それはともかく、坂田が火鉢を要求した時には、はや栓ぬき瓢箪の気持を想い出す必要が来ていたことは、事実である。その時にはつまり対局開始後三日目にはもう坂田の旗色は随分わるかったのだ。対局が済んでから令嬢は観戦記者に、
「父は四日頃から、私の方が悪い言うて、諦めさせました」と語ったというが、四日目とは坂田が一日言いそびれていただけのこと、実は三日目からもういけなかったことは、坂田自身でも判っていたのではなかろうか。が、敢て三日目といわなくとも、勝負ははや戦う前についていたのかも知れない。もっとも、こういうのは何も「勝敗は指さぬうちから決ってます」という彼の日頃持論をとりあげて言うのではない。いうならば、坂田は戦前「坂田の将棋を見とくなはれ」と言った瞬間に、もう負けてしまったのではなかろうか。
 対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。
 木村は十八分考えて、七六歩と角道をあけた。まず定跡どおりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考えたのは、気持を落ちつけるためであろう。
 駒から手を離すと、木村はじろりと上眼づかいに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛って来たかのような、自信たっぷりのその眼つきを、ぴしゃりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三四歩とこちらも角道をあけたり、八四歩と飛車先の歩を突き出したりするような、平凡の手はもう指せるものかという気がした。この坂田がどんな奇手を指すか見ておれ、あっというような奇想天外の手を指してやるんだと、まるで通り魔に憑かれて、坂田はふと眼を窓外にそらした。南天の実が庭に赤い。山清水が引かれていて、水仙の一株が白い根を洗われ、そこへ冬の落日が射している。
 十二分経った。坂田の眼は再び盤の上に戻った。そうして、太短い首の上にのつた北斎描く孫悟空のような特徴のある頭を心もちうしろへ外らせながら、右の手をすっと盤の右の端の方へ伸ばした。
 その手の位置を見て、木村は、飛車先の歩を平凡に八四歩と突いて来るのだなと、瞬間思った。が、坂田の手はもう一筋右に寄り、九三の端の歩に掛った。そうして、音もなくすーっと九四歩と突き進めて、じっと盤の上を見つめていた。駒のすれる音もせぬしずかな指し方であった。十六年振りに指す一生一代の将棋の第一手とは思えぬしずけさだった。
 普段から坂田は、駒を動かすのに音を立てない人である。「ぴしり、ぴしりと音を立てて、駒を敲きつける人がおますけど、あらかないまへん。音を立てるちゅうのは、その人の将棋がまだ本物になってん証拠だす。ほんとうの将棋いうもんは、指してる人間の精神が、駒の中へさして入り切ってしもて、自分いうもんが魂の脱げ殻みたいに、空気を抜いたゴム鞠みたいに、フワフワして力もなんにもない言う風になってしもた将棋だす。音がするのんは、まだ自分が残ってる証拠だす。……蓮根をぽきんと二つに折ると、蜘妹の糸よりまだ細い糸が出まっしゃろ。その細い糸の上に人間が立ってるちゅうような将棋にならんとあきまへん。力がみな身体から抜け出して駒に吸いこまれてしまうちゅうと、細い糸の上にも立てます-そういう将棋でないとほんとうの将棋とは言えまへん。そういう将棋になりますちゅうと、もう打つ駒に音が出て来る筈がおまへん」
 ある時、坂田はこう語った。それ故、彼は駒の音を立てるようなことは決してしない。
 九五歩もまたフワリと音もなく突かれた手であった。いわば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ」という声を放って、暴れまわり、のた打ちまわっているような手であった。前人未踏の、奇想天外の手であった。
 木村はあっと思った。なるほど変った手で来るだろうとは予想していた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現われたことのない手を指して来るとは、思いも掛けなかった。
「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた」と、木村はあとで感想を述べているが、恐らくその通りであったろう。
 木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだった。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新開の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言って、この一手の説明だけで二日分を費していたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。
 いまもあるだろうと思うが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋倶楽部へ、浮かね表情で通っていた。地下室特有の重く澱んだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁って、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で、はやコンコンといやな咳をしなければならなかったが、その頃私の心をすこしでも慰める場所は、その将棋倶楽部のほかにはなかった。
 察しのつく通り、私は病身で、孤独だった。去年の夏、私はある高架電車の車から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のように蠢いているひとびとの寝姿を見て、いきなり胸をつかれてかつての自分のアパート生活を想い出したことがあるが、ほんとうにその頃の私の生活は、耳かきですくうほどの希望も感動もない、全く青春に背中を向けたものであった。おまけに、その背中を悔恨と焦燥の火に、ちょろちょろ焼かれていたのである。
 そうした私を僅かに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢と脂で黒んでいて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか、私のような青春を失った病人だとか、そういう連中が集まるのにふさわしかった。私はその中にまじって、こわれ掛った椅子にもたれて、アスピリンで微熱を下げながら、自分の運命のように窮地に陥ちた王将が、命からがら逃げ出すのを、しょんぼり悲しんでいたのだった。冬で、手足がちりちり痛み、水洟をすすりあげていると、いやな熱が赤く来て、私はもうぐったりとして、駒を投げ出す、-そんなある日、私はその観戦記を読んだのである。
 その地下室を出た足でふと立ち寄った喫茶店へ備えつけてあった新聞を、何気なく手に取って見ると、それが出ていたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあった。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められているだけという奇妙な図面を、私はまるで舐めんばかりにして眺め
 「雌伏十六年、忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ」という見出しの文句を、誇張した言い方だとも思わなかった。私は眼がぱっと明るくなったような気がして、
 「坂田はやったぞ。坂田はやったぞ」と声に出して呟き、初めて感動というものを知ったのである。私は九四歩つきという一手のもつ青春に、むしろ恍惚としてしまったのだ。
 私のこの時の幸福感は、かつて暗澹たる孤独感を味わったことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でいた。もう私は孤独でなかった。私の将棋の素人であることが、かえって良かった。木村はこの九四歩にどう答えるだろうか、九六歩と同じく端の歩を突いて受けるか。それとも一六歩と別の端の歩を突くだろうかなどと、しきりに想像をめぐらし、翌日の新聞を待ち焦れた。六十八歳の老齢で、九四歩などという天馬の如き溌剌とした若々しい奇手を生み出す坂田の青春に、私はぴしゃりと鞭打たれたような気がし、坂田のこの態度を自分の未来に擬したく思いながら、その新聞を見ることが、日日の愉みとなったのである。けれど、私にとっては何日間かの幸福であったこの手は、坂田にとって幸福な手であろうか。
 素人考えでいえば、局面にもあるだろうが、まず端の歩を突く時は相手に手抜きをされる惧れがある。いわば、手損になり易いのだ。してみれば、後手の坂田は中盤なら知らず、まずはじめに九四歩と端を突いたことによって、そして案の定相手の木村に手抜きをされたことによって二手損をしているわけである。けれど、存外これが坂田の思いであったのかも知れない。はじめにぼんやり力を抜いて置いて、敵に無理攻めさせて、その際に反撃を加えるという覘いであったかも知れない。最初の一手で、はや自分の将棋を栓ぬき瓢箪のようなぼんやりしたものにして置こうとしたとも考えられる。「敵に指させて勝つ」という理論を、彼一流の流儀で応用したのだと言えないこともない。
 けれど、結果はやはり二手損が災いして、坂田は木村に圧倒的に攻められて、攻撃に出る隙もなく完敗してしまったのだ。攻撃の速度を重要視している近代将棋に、二手損をもって向ったのは、さすがに無謀だったのだ。無理論の坂田将棋は無理論に頼り過ぎて、近代将棋の理論の前に敗れてしまったのである。
 木村は「奇異な感に打たれた」という感想に続いて、
 「-が、それと同時に、九四歩を見てからの私は、自分でも不思議な位に、グッと気持が落着いて、五六歩と突く時は相当な自信を得ていた。そして五五歩の位勝からは、これが攻撃的に必ず威力を発揮し得るもの、と確信づけられた」と言っている。
 五六歩は七六歩、九四歩に次ぐ第三手目である。五五歩は五手目。つまりは木村は三手指した時に、はや勝ったと確信したのである。いや、九四歩を見た途端に、そう思ったのであろう。
 そうしてみれば、坂田は九四歩を突いた途端に、もう負けていたのである。一手六時間という長考を要するような苦しい将棋をつくりあげた原因は、この九四歩にあったのだ。しかも、彼はこの手に十二分しか時間を費していない。予定の行動だったのだ。戦前「坂田の将棋を見とくなはれ」と大見得切った時に、はや彼はこの手を考えていたのではなかろうか。
 「滝に打たれる者は涼しいばかりやおまへん。当人にしてみましたらなかなか辛抱がいります」対局場での食事の時間に、ふと彼は呟いたという。はや苦戦を自覚していたのであろう。九四歩のような奇手をもって戦うのは、なるほど棋士の本懐にはちがいないだろうが、それだけに滝に打たれる苦痛も味わわなければならなかったのだ。けれど、それも自業自得だった、と言っては言い過ぎだろうか。変った手を指してあっと言わせてやろうという心に押し出されて、自ら滝壺の中へ飛び込んでしまったのではなかろうか。
 変った将棋は坂田にとってはもう殆ど宿命的なものだった。将棋に熱中した余り、学校で習った字は全部忘れて、一生無学文盲で通して来た。駒の字が読めるほかには、-ある時上京して市電に乗ろうとしたが、電車の字が読めぬ、弱っているうちにやっと品川行という字だけが、品川の川という字が坂田三吉の三を横にした形だったおかげでそれと判って、助かった-という程度である。それ故古今の棋譜を読んでそれに学ぶということが出来ない。おまけに師匠というものがなかったので、自分ひとりの頭を絞った将棋を考えだすより仕様がなかったのだ。自然、自分の才能、個性だけを勝りにし、その独自の道を一筋に貫いて、船の舳をもってぐるりとひっくり返すような我流の将棋をつくるようになった。無学、無師匠の上に、個性が強すぎたのだ。ひとつには、泉州の人らしい茶目気もあったろう。が、それ故に、坂田将棋は一時覇を唱え、また人気も出た。自信も湧いて来た。角頭の歩を突いたり、名人を自称したり、いわば横紙を破る強気も生じたのだ。が、この強気の故に彼は永い間沈黙を守らねばならぬ破目になった。そうして、三年間というもの、彼は人にも会わず外出もせず駒を手にせず、ひたすら自分の心を見つめて来た。何を考え、何を発見したか、無論私には判らない。が、しかし「その時の坐蒲団がいまだにへっこんでいます」というくらいの沈思黙考の間に、彼が栓ぬき瓢箪の将棋観をいよいよ深めたであろうことは、私にも想像される。我の強気を去らなくては良い将棋は指せないという持論をますます強くしたのではなかろうか。そうして、その現われが、攻め勝とうとする速度を急ぐ近代将棋に反抗する九四歩だったのではなかろうか。つまりは、九四歩は我を去ろうとする手であったのではなかろうか。けれど、一面これくらい坂田の我を示す手はないのだ。坂田は依然として坂田であった。彼は九四歩の手損を無論知っていたに違いない。が、平手将棋は先後いずれも駒が互角だから、最初の一手をどう指そうと、隙のないようには組めるものだ、最初の一手ぐらいで躓くような坂田の将棋ではない、無理な手を指しても融通無碍に軽くさばくのが坂田将棋の本領だという自信の方が強かったのだ。この自信があったから、彼は十六年振りに立ったのである。そうして、彼は生涯の最も大事な将棋に最も乱暴な手を指したのである。
 これはもう魔がさしたというようなものではなかったのだ。坂田という人にとっては、もうこれほど自然な手はなかったのである。自分の芸境を一途に貫いたまでの話である。なんの不思議もない。けれど、その時彼がかつて大衆の人気を博したいわゆる坂田将棋の亡霊に憑かれていたことは確かであろう。おまけに、なんといっても六十八歳である。そうまで人気を考慮しなくてもと思われる。なにか老化粧の痛ましさが見えるのである。
 大衆は勿論喝采した。が、いよいよ負けたと判ると、なんだいという顔をした。
「あんな莫迦な手を指す奴があるか」と薄情な唇で囁いた。専門の棋士の中にもそういうことをいう者があった。
 対局の終ったのは、七日目の紀元節であった。前日からの南禅寺の杉木立に雨の煙っている朝の九時五分にはじめて、午に一旦休憩し、無口な昼食のあと午後一時から再開して、一時七分にはもう坂田は駒を投げた。雨はやんでいなかった。
 対局者は打ち揃って南禅寺の本堂に詣り、それから宝物を拝観した。坂田は、
「おおきにご苦労はんでござります」と、びっくりするほど丁寧なお辞儀をして歩いた。五十五年間、勝負師として生きて来た鋭さがどこにあろうかと思われるくらいの丁寧なお辞儀であった。
 書院で法務部長から茶菓を饗された時も、頭を畳につけて、
「おおけに御馳走(ごっと)はんでした」と言った。特徴のある太短かい首が急にげっそりと肉を落して、七日間の労苦がもぎとって行ったようだった。
 迎えの自動車に乗ろうとする時、うしろからさした傘のしずくがその首に落ちた。令嬢の玉江はそれを見て、にわかに胸が熱くなった。冬の雨に煙る京の町の青いほのくらさが車窓にくもり、玉江は傍のクッションに埋めた父の身体の中で、がらがらと自信が崩れて行く音をきく想いがした。
 坂田は不景気な顔で何やらぼそぼそ呟いていたが、自動車が急にカーヴした拍子に、
「あ、そや、そや。……」と叫んだ。
「えッ 何だす?」玉江は俄かに生々として来た父の顔を見た。
「この次の花田はんとの将棋には、こんどは左の端の歩を突いたろと、いま想いついたんや」と、坂田は言おうとしたが、何故か黙ってしまった。そうして、その想いつきのしびれるような幸福感に暫らく揺られていた。木村との将棋で、右の端の歩を九四歩と突いたのが一番の敗因だったとは思わなかったのである。そうしてまた花田との将棋でそれと同じ意味の左端の歩を突くことが再び自分の敗因になるだろうとは、夢にも思わなかったのである。
 雨は急にはげしくなって来た。坂田は何やらブツブツ呟きながら、その雨の音を聴いていた。

「聴雨」
新潮 昭和18年8月

坂田三吉
さかた さんきち 1870-1946
明治−昭和前期の将棋棋士 大阪府生まれ。
大正6年のちの名人で最後の推薦制終身名人となる関根金次郎を破る。北条秀司の戯曲「王将」の主人公として有名。通天閣に記念碑がある。
木村、花田
木村義雄
きむら よしお 1905-1986
大正−昭和期の将棋棋士 東京生まれ。
昭和12年短期実力名人制の初代名人となり、以後連続5期をふくむ、計8期名人位に就く。関根金次郎門下。永世14世名人。
花田長太郎
はなだ ちょうたろう 1897-1948
大正−昭和前期の将棋棋士 北海道 函館生まれ。
昭和12年第1期名人戦で木村義雄に敗れる。37年追贈9段。
名人関根金次郎
関根金次郎
せきね きんじろう 1868-1946
明治−昭和前期の将棋棋士 千葉県生まれ。
大正10年13世名人となる。昭和10年みずから引退。江戸時代から続く終生就位名人制を廃止し、以後名人制は、短期交代の実力名人制へと移行し現代に至る。