サイト内検索
全表示次のページへ

文楽の人

織田作之助

吉田文五郎

 吉田文五郎でござります。お初にお眼に掛ります。何なりと聴いとくなはれ。
 歳でっか。へえ、もう六になります。へえ、そうだす。七十六だす。吉田栄三はんはわてより三つ若うおますさかい、三でんな。さあ何年生れになりまっしゃろか。こうーつとさよか、栄三はんは明治五年でっか。ほんならわては二年生れいう勘定になりまんな。
 さア二年の何月だしたか、たしか十月やと思いっすけど……。日でっか。ころっと忘れてしまいました。えらい鈍なことで、大阪の畳屋町だす、生れた所は…‥。これだけはよう覚えとります。それといいますのが、わての生れた家がいまだに畳屋町に残っとりますのんや。わての父親はその畳屋町で親譲りの質屋とその片店に炭屋をやっとりました。河村清五郎という名アだしたさかい「河清」という家号だしたが、何でもわての九つの時に失敗して人手に渡してしまいました。けど、その「河清」という看板はいまだに畳屋町におます。
 その時分はなんし大阪も随分(とうない)不景気だしたさかい、「河清」を人手に渡してからというものは、父親もえらい苦労して、母親と一緒に一文菓子を売って歩いたりお鮨屋をしたり、住居もわてが覚えてるだけでも、九条、天満の寄木町、上福島、千日前、木津……という風にあっちイ変り、こっちイ移りして、いろいろ商売も変ってみましたが何やってみてもてんと埒があきまへん。そんで父親は世話する人がおましたさかい、松島の文楽座イはいって、-いえ、芸人やおまへん、表方で手代かなんどの仕事するようになりました。
 わてが文楽イはいったのんは、そんな関係からだしたが、けど父親は自分が文楽イ勤めるようになったからいうて、子供まで小屋者にする積りはおまへなんだ。もちっと堅気の稼業に入れる積りでしたさかい、わては十一か十二の歳に奉公へ遣られました。
 その時分は、大阪では良家の坊(ぼ)ン坊ンやない限り、みな子供の時から奉公に行たもんだしたがこれがまた随分辛うおました。なんし今で言うたら尋常学校もまだ出てんくらいの歳だす。それが貴方様(あんさん)、朝は冬でも四時に起きて、戸オあけて冷い水で拭掃除して、それが済むと旦那のお伴して朝銭湯イ行て、旦那の湯くんだり水くんだり、背中流したり、身体拭いたりします。旦那は一足先に帰りはります。裸で飛んで行って下駄揃えて、そのあとではじめて湯ウにつかって雀の行水みたいに一寸身体ぬらしただけで飛んで帰って、漬物二片の朝ごはんを戴いて、それから店へ出て、昼間さんざんこき使われてええ加減くたびれているのに、晩は旦那の按摩をさせられて、煎餅蒲団にくるまって寝るんが十二時だした。一刻うとうとしたかと思うと、もう起きて眠い眼エこすりこすり蒲団たたんで。それで貴方様、お給金いうもんがおまへんのや。休みも半年にたった一日あるだけでその時に小遣三銭いただきます。一年で六銭だす。
 なんし遊びたい盛りだしたさかいそれでは何ぼ何でも辛抱が続きまへん。それにわてはだいたいが子供の時分から芝居や見世物がほん好きだして、その時分は五厘あったら見られましたさかい、母親から小遣さえ貰えば芝居小屋や見世物小屋イ行てましたような按配で、奉公してましても、心がついそっちイ向いて、ああ今頃は道頓堀でやぐら太鼓がにんぎやか(賑か)に唱ってるやろな-と、こない思いますと、そわそわして来まして何にも手がつきまへなんだ。自分から飛び出したり、暇出されたりして、到頭二十三軒も奉公口を変えました。
 そんな按配で、どこイ行っても尻が温もりまへなんでっさかい、父親もえらい心配して、その時分京都の寄席に出たはった吉田玉五郎はんいう人形遣いに、
「どないもこないも仕様おまへんねや」
 と、わてのことこぼしますと、
「そない困ってるねんやったら、いっそのことわての所イ寄越してみなはれ」
 というわけで、到頭玉五郎はんとこイ預けられました。なんでも十四かそこらの時やったと思います。
 玉五郎はんとこで尻が落ち着いたかと、おっしゃるんでっか。へえ、そらもう貴方様なんし芝居や見世物ずきのわてが到頭芝居の仲間イはいったんでっさかい、前の奉公みたいなことはおまへなんだ。けど芝居いうてもたかが京都の場末の寂しい寄席だす。やっぱし道頓堀や千日前の賑かな小屋が懐かしゅうなって来ます。それに何といってもまだ十四やそこらだっさかい、親の許が恋しなります。ある日、玉五郎はんからお米買いに遣らされたその足で、到頭伏見から三十石船に乗って逃げ戻りました。
 そこで父親も仕様なしに、わてを松島の文楽座イ連れて行って、文楽座の親玉はんの吉田玉造はんの息子はんにあたりはる吉田玉助はんの部屋イ連れて行て、
「よろしゅう頼みます」
 言いまして、その時からわては玉助はんの弟子になることになりました。十五の暮れだした。
 父親にしてみましたら、同じ人形遣いにするねやったら、寄席に出たはる玉五郎はんとこイ弟子とも奉公人ともわからんような恰好で預けとくより、いっそ檜舞台の文楽座のえらいお師匠はんとこイ正式に預けた方が良(え)えとおもったんでっしゃろ。それに何というても父親は文楽イ勧めてましたしまア親の傍で尻を温(ぬく)もらそ思ったんでっしゃろ。

全表示次のページへ

「文楽の人」
白鴎社 昭和21年6月

吉田文五郎
吉田文五郎[四世]よしだぶんごろう 1869-1962
大正−昭和期の文楽人形遣い 大阪生まれ。

Yahoo! カテゴリ掲載サイトです

旅行、観光 > 旅のノウハウ

つゆは大阪 3

大阪は、梅雨最高のディストネーション なにわダンス

日限萬里子の缶コーヒー

三角公園で缶コーヒーを飲んだのだろうか…

文楽のほめ言葉

どうすればうまく文楽に誘うことが出来るだろうか…

宿泊施設旅館格付け

大阪ミナミの宿泊施設旅館を格付け

東海道新幹線ガイド

東海道新幹線 バイリンガル乗換・出口ガイド

大阪のプロフィール

日本の中の大阪の位置、地下鉄路線図、3分間観光案内